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朝鮮の古代史:朝鮮半島には倭人が住んでいたのか?

前回の記事では1.2万年前〜7千年前の間、無人になった朝鮮半島南部に縄文人が移住したと書きました。今回は中国の歴史書から朝鮮半島古代の歴史をまとめていきます。

目次

 

箕子朝鮮とは

3100年前 周によって殷が滅ぼされます。この頃、殷の一族が箕子朝鮮を建国したと思われます。

BC1世紀(2100年前)にかかれた中国の歴史書史記』によれば、中国の殷最後の王である帝辛(紂王ちゅうおう)の叔父である箕子が箕子朝鮮(きしちょうせん)を建国したとあります。

中国3000年の歴史?殷とは?

衛氏朝鮮とは?

2200年前(紀元前195年)になると、衛満が1000年間続いていた箕子朝鮮を滅ぼします。

衛満とは戦国時代の燕の国(前漢に従属)に支えていた将軍だったようです。紀元前195年は劉邦前漢を建国した時期(紀元前206年)の10年後にあたるので、燕国内で前漢に従うのか、闘うのか意見対立があったのかもしれせんね。

衛満は衛氏朝鮮を建国します。史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、南側は辰国とありますが、都市名か国名かも民族も不明。いずれにしろ辰国は辰韓または三韓の前身であるとされています。

 

滅ぼされた箕子朝鮮の准はというと、逃亡して海を経由して韓の地に居住したとあります。 後裔は絶滅したとされており、後の三韓の祖ではないということになります。

 

三韓の前身

三韓の成立時期は不明ですが、"辰韓馬韓の東にある。そこの老人が語るところによれば、その昔、中国の秦国の苦役に服することを嫌って逃亡した流民たちが韓に渡ってきた。馬韓では東の国境地帯の土地を割いてかれらに与え、住まわせた。とあります。『三国志』の「魏書」東夷傳 辰韓

 

このことから、辰韓の成立が秦の統一期間だとすれぼ、紀元前230年 – 紀元前221年の間ということになり、衛満が箕子朝鮮を滅ぼすよりも前に辰韓はあったように思えます。

 

また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたとあり、鬼界カルデラから逃れた縄文人の末裔も馬韓に住んでいたのかもしれませんね。

 

その後紀元前209年にも中国から朝鮮半島への大規模な移住があったようです。魏志東夷伝』によると、「陳勝などの蜂起(紀元前209年に起きた農民一揆)、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した」と記されています。

 

この時期になると、漢民族の支配圏以外の国々への亡命することがよくあったのでしょうか。こうした流れを受けて紀元前209年に衛満も亡命するわけですね。

 

衛氏朝鮮の力は朝鮮半島南部の韓にも影響を与えていたようです。『漢書 西南夷両粤朝鮮伝』には「衛氏朝鮮王の右渠が、真番や辰国が上書して天子(武帝)にまみえんと欲するのを妨げて通さなかった。」とあり、朝鮮半島南部の辰国は前漢と繋がりを持ちたかったのに対して、衛氏朝鮮な邪魔したようです。このあたりが武帝の怒りを買って滅亡につながったのでしょうか。

 

衛氏朝鮮の滅亡と前漢による支配

衛満による衛氏朝鮮建国からおよそ100年後、前漢の第7代皇帝武帝の時代になると、しだいに衛氏朝鮮の雲行きが怪しくなってきます。

武帝 Wikipediaより

前漢の元朔元年(紀元前128年)衛氏朝鮮に属していた濊や沃沮のうち、濊君の南閭らが右渠に背き、28万人を率いて遼東郡に服属した。武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した。とあります。

朝鮮半島の古代年表より

蒼海郡の設置により前漢の朝鮮進出を促進したようです。2100年前(紀元前108年)前漢武帝により衛氏朝鮮が滅亡させられ、漢四郡設置につながります。蒼海郡の場所はわかっていませんが、漢四郡の1つである玄菟郡と深い関連があるようです。

 

これにより朝鮮半島北部は前漢による直接支配、南部は三韓という構図ができあがりました。高句麗が台頭し西暦313に高句麗楽浪郡を滅ぼずでおよそ400年間は朝鮮半島は中国の支配下の時代というわけです。

公孫氏による帯方郡の設置

後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡支配下に置きます。

 

その後を継いだ嫡子・公孫康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割いて帯方郡を分置します。正確な時期は不明ですが早ければ建安9年(204年)頃と考えられています。

 

遼東半島の支配者「公孫氏」に関する記事

公孫淵の滅亡と魏による支配

邪馬台国は何処にあったのか?より

魏が派遣した司馬懿仲達らによって238年公孫淵が滅ぼされると、239年に邪馬台国卑弥呼が魏に使いを初めて送ります。

 

公孫淵を滅ぼした勢いで魏は朝鮮半島を南下したようです。『魏志三少帝紀』によれば正始七年(246)に「韓、那奚等の数十国がそれぞれ種族を率いて落ち降った。」と記されています。

 

卑弥呼がいち早く魏に使いを送ったのも、魏が朝鮮半島を手中におさめた勢いで海を越えて日本列島まで攻めてくる事を恐れたのかもしれませんね。

朝鮮半島南部に倭人がいた?

西晋の時代にかかれた『魏志倭人伝』(233-297)には朝鮮半島倭人が住んでいたらしき記録があります。

 

一、魏志韓伝(馬韓)  

韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也

 

「韓は帯方の南に在り。東西は海を以って限りとなし、南は倭と接す。方は四千里ばかり。三種ありて、一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁韓と曰ふ。辰韓は古の辰国なり。」

 

韓の東西は海ですが、南に海はありません。倭と接すとあるので、朝鮮半島南端に倭が存在したような書き方です。

 

 

 

その後、西晋が滅びることで朝鮮半島は戦乱の時代に突入します。