公孫氏とは?
遼東公孫氏とは後漢の時代に幽州遼東郡を実行支配していた一族です。
幽州とは紀元前106年(元封5年)漢の武帝が全国を13州に分割した際に設置された州で現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市を中心とする地域です。
後漢の末期は政治の腐敗、災害、疫病、黄巾の乱などカオスな時代だったので、中原政府の監視は遼東まで及ばず公孫氏の手中にあったわけです。
公孫氏はどのように勢力を拡大して来たのか見ていきましょう。
遼東公孫氏の祖 公孫度
公孫龍:キングダムより
公孫氏は古くは中国の春秋戦国時代から高位高官として記録がある家柄です。 春秋戦国時代の公孫僑(子産)や公孫鞅(商鞅)などが有名です。
しかし、遼東半島の公孫氏は決して有力豪族ではなかったようです。公孫度(こうそんたく)は学問に通じていた事から中央政府の役人となりますが、失職します。
中平6年(189年)には董卓の中郎将となった遼東郡出身の徐栄の推挙で、遼東太守に任命されます。 『三国志演義』では悪役として描かれる董卓ですが公孫度にとっては救世主ですね。
公孫度は高句麗や烏桓(匈奴の冒頓単于が滅ぼした東胡の生き残り)を攻めた功績から、董卓死後に実権を握った曹操にも称され「武威将軍・永寧郷侯」の地位を与えられます。
が、公孫度はこの地位に不満だったのか、朝廷から贈られた印綬は武器庫に放置したといいます…不敬ですね。笑
公孫度の外交として『隋書』に高句麗の東明王の子孫の仇台(夫余王、百済の祖?)に娘を嫁がせたとあります。
建安9年(204年)に死去。子の公孫康が位を相続します。
曹操に味方した公孫康
建安9年(204年)、父の後を継いで太守となったのが息子の公孫康です。建安年中に、帯方郡を設置し、韓や倭まで勢力を広げました。
蒼天航路(19巻10P)より
公孫康といえば、袁紹の息子である袁煕・袁尚を討った人物として有名ではないでしょうか。
建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟が曹操に追われ遼東郡に逃れてきました。公孫康は楼班・袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出します。これにより、曹操から「襄平侯・左将軍」に任命され、魏の後ろ盾もありさらに勢力を伸ばしていきます。
公孫淵の中継ぎ公孫恭
公孫康の跡を継いで遼東太守となったのは弟の公孫恭です。子の公孫晃・公孫淵が幼少だったためでした。
魏の曹丕(文帝)からは、車騎将軍・仮節・平郭侯に任命されています。 公孫恭は228年、成人した甥の公孫淵に脅迫され太守の座を譲ることを余儀なくされます。公孫恭が兄の公孫晃を可愛がり公孫淵を遠ざけようとしたのが原因と言われています。
燕王公孫淵
公孫恭を太和2年(228年)に脅迫して、遼東太守の座を奪い、魏の明帝から揚烈将軍の官位を与えられて承認されます。
世界史の窓より
公孫淵は呉とも通じ、嘉禾2年(233年)呉から九錫を受け「燕王」に封じられます。しかし、呉の使者として来訪した張弥・許晏・賀達らを殺害し、その首を魏に差し出しました。この功績により、魏から「大司馬・楽浪公」に任じられます。この公孫淵の二枚舌外交は、後に魏の不信を招くことになります。。
234年8月魏を苦しめていた蜀の諸葛亮孔明が没すると景初元年(237年)、毌丘倹は明帝の名で公孫淵に出頭命令を出しました。公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、毌丘倹と一戦に及びこれを撃退します。
これを機に公孫淵は魏からの独立を宣言。燕王を称します。文武百官を置き、年号を紹漢とし、領土は帯方郡と楽浪郡と定めます。
紹漢2年(238年)、蜀戦線の最高指導者であった司馬懿自ら指揮を執る魏軍が向かってくると、公孫淵は呉に援軍を求めます。呉は過去の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返します。それでも魏への牽制には役立つとみたのか援軍を差し向けます。同時に公孫淵は鮮卑の族長を単于に任じ、味方に取り込もうとしました。
しかし、呉の援軍が間に合わないうちに、単独で戦い魏軍に大敗、籠城するも食料が尽き遂に降伏し、一族もろとも処刑されます。
公孫晃の悲劇
公孫淵の兄、公孫晃は役職を拝命し都(許昌、後に洛陽)に赴きます。叔父の公孫恭が遼東太守の座を奪われると、弟の討滅を何度も上表しますが、受け入れられませんでした。
公孫淵が魏に敗亡すると連座で処刑されてしまいます。正史と、『晋書』宣帝本紀によれば公孫淵が討たれた際には城内に幽閉されていたため、これを知った司馬懿に「公孫恭が太守であった時代は公孫氏が魏に忠実であった」として釈放されています。
公孫淵の末裔
『新撰姓氏録』の河内国諸蕃に「常世連、燕の国王、公孫淵の後なり」とあります。
公孫淵の家族は全て処刑されたとありましたが、一部は日本に落ち延びたようです。
公孫淵の末裔が立てた神社は現在でも数ヶ所残っているので下の記事をご覧ください。
- 価格: 825 円
- 楽天で詳細を見る