古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きです。

卑弥呼の正体を考察してみた

邪馬台国の謎の女王「卑弥呼

日本史の教科書に出てきますが、謎に包まれており、邪馬台国の場所さえも九州なのか、奈良なのか未だに論争が繰り広げられています。

そんな謎に包まれた人であるにも関わらず、日本人なら誰でも知っていると言っても過言ではない知名度を誇っているお方です。

 

今回はそんな卑弥呼の正体について考察していきます。

卑弥呼とは?

なぜ日本の歴史で卑弥呼を学ぶのでしょうか?

 

それは、日本の歴史上、文字の記録に残る最初の人物だからでしょう。

 

卑弥呼が登場するのは、日本の書物ではなく中国の歴史書魏志倭人伝』です。

これは三国志の時代(3世紀)に曹操の魏で作られた歴史書です。当時の日本の様子を他国の視点から客観的に説明した資料となります。中国だけでなく近隣の国に関する記載が残されており、日本については次のようにあります。

 

元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。  卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。  

 

卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。

 

正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。  

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が徇葬した。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。

Wikipedia より。

1世紀〜2世紀の日本は戦いが絶えなかったが、卑弥呼が女王となると争いが無くなったといいます。卑弥呼は鬼道をつかったとある事から、儀式、祭祀を行う巫女、シャーマンであったのでしょうか。

 

争乱の時代をまとめあげ、魏に遣いを送ることで、倭王として認められた卑弥呼と呼ばれる人物が3世紀の日本にいたとして、歴史の授業は卑弥呼から始まっていくんですね。

日本の歴史書に登場しない卑弥呼

 

日本側の記録に卑弥呼はどのように書かれているのでしょうか。日本最古の歴史書古事記』『日本書紀』の神功皇后の章には、注記で「魏志によれば倭国女王が魏に使者を送った」とある事から、7世紀に記紀を記した作者は魏志倭人伝の存在を知った上で、これを神功皇后と重ねたように思われます。

神功皇后は14代垂仁天皇の皇后で15代応神天皇の母、孫は16代仁徳天皇となります。

 

大阪にある5世紀に作られた大仙古墳が仁徳天皇陵であるならば、祖母にあたる神功皇后も4世紀末〜5世紀の人なので、魏志倭人伝に記された卑弥呼の時代とは一致せず、無理やりこじつけた感がありますね。

 

記紀の作者は卑弥呼の存在を隠したかったのか、単純に400年前の歴史を語り継がれていなかったのか謎は深まります。

卑弥呼崇神天皇

魏志倭人伝卑弥呼が治める邪馬台国について次のように説明しています。

 

邪馬台国の長官は伊支馬、次官以下を弥馬升・弥馬獲支・奴佳という。

 

長官、次官とありますので、役職の名前なのか個人の名前なのか判断しがたいのですが、個人の名前であると仮定すると、次の人物が浮上します。

 

それが、11代垂仁天皇です。

垂仁天皇の本名は活目入彦五十狭茅天皇(イクメイリビコイサチノスメラミコト)日本書紀に記されています。

 

イクメ!!

伊支馬!!

 

そして次官の弥馬升の候補として考えられるのが10代崇神天皇です。

 

崇神天皇の本名は日本書紀では御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)

 

弥馬升!!

ミマキ!! 

 

垂仁天皇の父である崇神天皇が次官として記されているのは疑問ですが、崇神天皇垂仁天皇の政治を補佐していたとも考えられます。

 

記紀崇神天皇垂仁天皇の時代と魏志倭人伝卑弥呼の時代が一致するのであれば、系図の中に卑弥呼にあたる人物がいるはずです。

卑弥呼の正体

崇神天皇の祖父8代孝元天皇の妹に倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)がいますが次のような逸話が日本書紀に残されています。

 

日本書紀崇神天皇7年のころ

国中で災害が多発したため、八百万の神を集めて儀式を行ったところ、大物主という神がモモソヒメに乗り移り、大物主を祀るように告げた。大物主を大和の三輪山に祀ると災害はおさまった。

 

鬼道を使う卑弥呼と祭祀を司るモモソヒメの共通点を感じる事ができます。

大物主が祀られた三輪山の神社は現在の大神神社(オオミワジンジャ)として残されています。

 

その後モモソヒメは大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。モモソヒメが明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れた。モモソヒメが驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に登ってしまった。モモソヒメがこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたためモモソヒメは死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えられている。

 

モモソヒメが埋葬されている古墳が大和にある箸墓古墳であると伝えられています。

箸墓古墳が作られた3世紀中頃〜後半という時代は魏志倭人伝卑弥呼の時代に一致します。

 

しかも、箸墓古墳は日本の古墳時代始まりの古墳ともいわれており、箸墓古墳が作られた後、次々と大和地方に前方後円墳が作られていくことから、箸墓古墳は大和に大きな勢力が誕生した起点であると考古学的に見られています。

日本書紀が語るメッセージ

三輪山神大物主がモモソヒメに乗り移った話は何を意味しているのでしょうか?

 

その意味は「祭祀を司る役目が男性から女性に変わった」という事です。

 

記紀ではそれまでの祭祀が男性の役目であったことが記されており、例えば2代天皇が即位のとき、天皇となった弟を支えるために、兄が祭祀王になったとあります。

 

魏志倭人伝は今まで男が王をしていたが、卑弥呼が王になると戦乱が治まったとあり、一致します。

 

また、モモソヒメと大物主との結婚にも重要な意味が隠されています。

 

大物主神といえば出雲の神です。

 

出雲地方では、この時代の遺跡から銅鐸が大量に出土していることから祭祀が盛んに行われていた地域でした。

 

出雲の神とモモソヒメの結婚は出雲と大和の同盟。すなわち、大和地方の反乱を抑えるために、出雲の祭祀文化を取り入れ、卑弥呼が祭祀で二つの国をまとめたと考えられるのではないでしょうか。

 

魏志倭人伝によると卑弥呼はまる247年に亡くなり、宗女である13歳の壹與(トヨ)を王としたとあります。

 

トヨに関してもしっかりと、日本書紀に記されているのでご覧ください。

 

崇神天皇が即位して5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)託して笠縫村に祀らせた倭大国魂神渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。

 

天照大神を祀ったトヨスキイリヒメは、崇神天皇と紀国造の娘との間に生まれた子です。

 

天皇家の皇祖神である天照大神は、八咫鏡に宿って皇居に祀られておりましたが、相応しい場所を探すために、トヨスキイリヒメと共に各地を巡ります。最終的には伊勢の地で落ち着きます。これが後の伊勢神宮です。

 

伊勢神宮以外にトヨスキイリヒメが天照大神が宿る八咫鏡とともに訪れた神社は「元伊勢」と呼ばれています。

rekitabi.hatenablog.com

 

天照大神といえば、太陽、日の神。

天照大神を祀る巫女だから日の巫女と呼ばれていた可能性はありますね。

天照大神が宿る鏡と魏志倭人伝で魏王からプレゼントされた銅鏡も関係はあるのでしょうか。

 

 

出雲の神を宿したモモソヒメを卑弥呼

大和の神を宿したトヨスキイリヒメを壹與、

とすると日本史が楽しくなってきます。

 

 

まとめ

卑弥呼の由来は天照大神を祀る「日の巫女」であり、箸墓古墳に埋葬されている、モモソヒメ、同じ時期に天照大神の鏡を携えて各地を巡ったトヨスキイリヒメを指すと考えると、魏志倭人伝の3世紀に一致します。今後考古学的な証拠が出てくるのが楽しみです。

 

 

火の鳥黎明編の舞台は邪馬台国です。卑弥呼の弟がスサノオであったり、イザナギが主人公であったりと日本神話も織り混ぜてありハマります。手塚治虫先生は邪馬台国九州説を推していたのでしょうか。

 

出雲と大和についてわかりやすくまとめてあります。記紀とは異なる創世神話を持つ出雲国風土記や大量の銅鐸が出土した荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡を繋げて解説している点が目から鱗でした。