古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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さきたま古墳③ヲワケの臣と渡来人

前回の記事ではさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた文字から古代のさきたまと大和との関係を考えてきました。今回は鉄剣を作らせて稲荷山古墳に埋葬されたとされるヲワケの臣について掘り下げていきたいと思います。

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大仙陵古墳と稲荷山古墳の共通点

鉄剣に刻まれた文字からヲワケの臣は5世紀に21代雄略天皇に仕えていた杖刀人(警備を司る役職)の首であり、大和(奈良県)もしくは河内(大阪府)からさきたまへ赴任したのではないかと考察してきました。鉄剣に刻まれた文字に関する記事

 

5世紀といえば大和政権が成立してから200年あまりが経過し、大和盆地での基盤が固まり朝鮮半島や中国との交流を盛んに行っていた時代にあたります。そのような時代に遠くはなれた関東平野で巨大な古墳群が造られ始めることはいったい何を意味するのでしょうか。

さきたま古墳群の前方後円墳の特徴(①主軸方位がそろっている②長方形の二重周堀③西側に造出し)が大阪府大仙陵古墳に類似している事からも、大仙陵古墳建築に携わった技術集団がやって来て造られた古墳と考える事ができるでしょう。さきたまに現れた技術集団とはいったい何者なのでしょうか。

 

 

5世紀の大和政権はグローバル?

まずは大仙陵古墳が造られた5世紀前半の日本を想像していきましょう。大仙陵古墳に埋葬される人物は16代天皇仁徳天皇だと宮内庁は言います。しかし発掘調査をしていないため考古学的な証拠があるわけではありません。

仁徳天皇系図です。有名な日本武尊(ヤマトタケル)のひ孫で、雄略天皇の祖父となります。稲荷山古墳鉄剣より雄略天皇の時代が5世紀後半だとすれば、祖父の仁徳天皇は5世紀前半頃に活躍した人物と推測できるでしょう。

 

初代神武天皇が大和(奈良盆地)に入ってから、歴代の天皇は大和に移住してきました。仁徳天皇の父応神天皇の時代になると朝鮮半島(任那新羅百済)との交流に力を入れるために、都を難波の大隅宮(おおすみのみや)、現在の大阪市東淀川区に移動させます。

応神天皇の頃、渡来系の氏族(秦氏、漢氏)を積極的に保護したり、百済から馬や七枝刀が伝わったりと大陸の文化を次々と取り入れられた事が『記紀』に記されます。

 

応神天皇の後をついだ仁徳天皇は即位すると難波高津宮(たかつのみや)を都として大陸との交流を積極的に行っていきます。

 

5世紀の大和政権が大陸と交流していた事は海外の文献でも同様に記載があります。

中国の『宋書 倭国伝』には、倭の五王が宋の皇帝に使いを送った事が記されており、一番最初に登場する倭王「讃」を仁徳天皇とする説があります。

中国吉林省で発見された『好太王碑』には4世紀末〜5世紀前半に倭が朝鮮半島において百済新羅高句麗と戦ったと記されています。

4世紀〜5世紀の朝鮮半島高句麗百済新羅の3国と小国の連合である任那が成立する群雄割拠の時代です。

 

これらの事から、5世紀の大和政権は大陸の文化を積極的に取り入れるために大和から河内に拠点を移し、大陸からもたらされてた技術によって巨大前方後円墳大仙陵古墳を造る事ができたと考えられます。

 

巨大古墳を造った渡来人

大和政権が大陸から盛んに文化を取り入れた時代と一致するように4世紀末〜5世紀に造られた前方後円墳は今までの古墳に比べて巨大化します。また、埋葬施設である石室を作るための石を加工し、運搬する技術などもこの頃もたらされたと考えられています。それらの技術を持ち込んだ人々とはいったいどんな人なのでしょうか。

 

弓月君(ユミヅキノキミ)

応神の時代に百済からやってくる。蚕(かいこ)の繭から生糸を作る養蚕の技術や、機織りの新しい技術を日本に伝えた。 秦氏 (はたうじ)という豪族の祖先と呼ばれる。

 

阿知使主 (アチノオミ)

応神天皇の時代にやってくる。文筆に優れており、東漢氏(やまとのあやうじ)の祖先とされている。坂上田村麻呂の祖先。坂上氏によれば後漢12代皇帝の末裔で後漢滅亡(220年)後、帯方郡に移り住んでいたとされる。阿知使主は応神天皇に「旧居帯方の人民男女はみな才芸があるが,最近は百済高句麗の間にあって去就に困っているため,これを呼び寄せたい」と進言,使者を派遣してその人民を勧誘し,帰化させたとある。

 

王仁 (ワニ)

百済から渡来した王仁は,冶工,醸酒人,呉服師を率いて『論語』(10巻)、『千字文』(1巻)を応神天皇に献上した事で日本に 漢字 が伝わる。子孫は河内国の古市に居住して西文首(かわちのふみのおびと)として朝廷に仕えた。西文氏(かわちのふみうじ)の祖と言われてる。

 

弓月君、阿知使主らは大和、王仁らは河内にてその勢力を築いていきます。漢字が初めて伝えられたのが、雄略天皇の曽祖父の応神天皇の時代であると考えるならば、雄略天皇の時代においても日本列島において漢字は最先端の文化だったことでしょう。最新知識である漢字を使ってヲワケの臣の功績を刻むことのできるのは渡来系の末裔であり、5世紀前半に大阪、6世紀後半にさきたまに出現する巨大古墳と渡来人には関係があると考えられます。

 

百済滅亡の衝撃

外交に注力するために大和から河内に拠点を移した5世紀前半の大和政権は朝鮮半島の中でも百済から進んだ技術を取り入れている事がわかりました。しかし、時は流れて5世紀中頃になると朝鮮半島の情勢が大きな変化を迎えていき、百済新羅と大和との関係も今まで通りではいかなくなっていくようです。そこで5世紀の朝鮮半島の状況を見てみたいと思います。

436年高句麗に隣接する中国の北燕が滅亡します。これにより長きにわたって北燕と攻防を繰り広げていた高句麗は南の新羅百済へ勢力を広げる余裕が生まれました。

 

それまで対峙していた新羅百済でしたが、北の高句麗の脅威に対抗するために433年に百済新羅に使者を送り講和を求めており、455年に高句麗百済に出兵すると新羅百済を救済しています。ところが475年9月高句麗の長寿王が百済の都漢城を攻め百済王は倒されてしまうと三国史記』に記されています。

 

日本書紀』も同様に雄略天皇20年に百済滅亡に関する記載があり、雄略天皇百済に熊川(忠清南道公州市)の土地を授けたと記されています。

 

曽祖父、祖父の代から大和政権に繁栄をもたらした百済が滅ぼされた事によって雄略天皇は衝撃を受け、焦った事でしょう。百済なき後引き続き大陸との交易で恩恵を得るためには、今まで関係希薄だった新羅と友好関係を結びたいと考えたに違いありません。そこで新羅との関係を取り持ったのが、遠い昔に新羅から渡来した一族の末裔であったと考えます。

 

雄略天皇新羅派だった?

新羅と友好関係を築くために雄略天皇が目をつけたのが、丹後半島新羅系渡来人の末裔です。丹後半島の位置する日本海沿岸地域には古くから大陸の文化が伝わった形跡があります。日本最古の鉄が発見された3世紀の遺跡に関する記事

 

 

また丹後半島には大陸からもたらされた様々な伝承が残っています。

例えば『日本書紀』には10代天皇垂仁天皇の時代に新羅の王子、天日鉾(アメノヒボコ)が渡来し但馬に住んだとあり、アメノヒボコを祀る出石神社(兵庫県豊岡市出石)が残っています。

出石神社。但馬国一宮。式内社

 

また、雄略天皇の時代の大きな謎である、丹後の神である豊受大神伊勢神宮に祀ったのも丹後新羅系渡来人の末裔を味方につけるためだったのではないかと考えます。丹後の神豊受大神と天女の伝説に関する過去の記事

 

伊勢神宮の外宮に豊受大が鎮座した由来については『古事記』『日本書紀』への記載はありませんが、804年に編纂された伊勢神宮の社伝『止由気宮儀式帳』には以下の記載があります。

 

雄略天皇の夢に天照大御神(アマテラスオオミカミ)が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(トヨウケノオオカミ)を近くに呼び寄せるように」と神託した。『止由気宮儀式帳』にはそれが何年のことであるという記述はないが、『大神宮諸雑事記』の第一「雄略天皇」の条に「即位廿一年丁巳」、すなわち雄略天皇21年とある。この神託を受け雄略天皇22年7月7日 (旧暦)、内宮に近い「伊勢国度会の郡、沼木の郷、山田の原」の地に豊受大御神を迎えて祀った。

 

これらの年号を信じるのならば、雄略天皇20年 百済が滅亡 した2年後の雄略天皇22年に伊勢神宮豊受大神を祀る事によって、丹後半島の親新羅勢力を味方につけて、百済滅亡後も大和政権の朝鮮半島における影響力を持ち続けたい狙いがあったのではないかと考えることはできないでしょうか。

 

ヲワケの臣と渡来人

前回の記事で、シキの宮=河内(大阪府)説を妄想させていただきました通り、即位して間もない頃の雄略天皇は祖父仁徳天皇、曽祖父応神天皇を見習って、河内の渡来系氏族王仁氏の末裔に接近するために、シキの宮に滞在し、仁徳天皇の娘であるワカクサカベノミコトを皇后に迎えました。その際に雄略天皇に仕えたヲワケの臣が河内の百済系渡来人と親交を持った事は矛盾しないでしょう。

 

しかし即位から20年で朝鮮半島は荒れて百済が滅亡した事で状況は一変します。雄略天皇は今まで百済系渡来人体制から新羅系渡来人体制に政策を転換するとともに、外国勢力に対抗するため国内での雄略天皇の権威を確固たるものにするべく、関東にヲワケの臣を派遣したのではないでしょうか。ヲワケの臣さきたまへ移住する際に、新羅人と結びつきを強める大和政権の先行きを見限った百済系渡来人が新天地を求めて同行したのかもしれません。

さきたまに渡来人が来た手がかりとしてさきたま古墳群の将軍塚古墳(6世紀後半)で出土した「馬の鎧」があります。

 

馬冑と呼ばれる馬の武装用の冑は、国内では珍しい副葬品で和歌山県の大谷古墳、福岡間の船原古墳と合わせて3例のみです。高句麗楽浪郡紀伊を通じてさきたまにもたらされたとの説もあるようなので、これから調べてみたいと思います。

 

まとめ

遠く離れた大和、河内の地から渡来人を率いてやってきたヲワケの臣がさきたまに来た理由を想像すると雄略天皇朝鮮半島の関係が見えてきました。ヲワケの臣に付き従って来たさきたまに来た渡来系の人々が幸せに暮らせていたらよいなーと思います。

 

 

次回はヲワケの臣の末裔とさきたま古墳の終焉について書いていきたいと思います。

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