古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きです。

テオティワカン文明と日本の星神信仰

東京国立博物館にて開催されていた古代メキシコ展に行ってきました。

テオティワカン、マヤ、アステカの遺物をリアルで見ることができて感動しました。古代メキシコ文明と古代日本との類似点を見つけたので紹介していきたいと思います。

 

テオティワカン文明における星神信仰

テオティワカン文明は紀元前100年頃に現在のメキシコにあたる地域において、西の中央高原海抜2300mの盆地におこりました。

 

この地域は活火山が連なり鉱物資源が豊富に産出される事から、黒曜石、玄武岩、ヒスイを用いた建物や装飾品が盛んに作られました。一方で水不足、食料保存は難しい地域で、人々は厳しい自然環境を「神」として恐れ崇めたと言われています。

 

テオティワカンの神々

テオティワカン文明の特徴として3世紀頃作られた3つの巨大なピラミッドがあります。3つのピラミッドはそれぞれ太陽・月・蛇のピラミッドと呼ばれています。なぜテオティワカンの人々は巨大なピラミッドを作る必要があったのでしょうか?

 

雨の少ないメキシコにおいては、人々を統治する王の資格は嵐の神と対話し、恵の雨を降らせる事でした。雨が降らない期間が続くと人々は、王が神との交渉に失敗したと考え反乱が起こされる事もあったのです。

天候の神、嵐の神の彫刻が人々の住む家に彫られていた。

王は天候を予測するために星を観測する事で気象予測をし、武力ではなく儀式によって人々を統治したのでしょう。その証拠にテオティワカンには10万人が収容できる巨大な広場があります。儀式の際には全国民が広場に集まったと言われています。

 

金星と羽毛の蛇神

10万人入れる広場の真ん中に「羽毛の蛇ピラミッド」があります。このピラミッド四方の壁全面に羽毛の生えた蛇の像、蛇神が彫られている石彫で覆われているのでこの名前がついています。

テオティワカンの人々が羽毛の蛇をどんな名前で呼び崇めていたのかは今となってはわからないそうですが、羽毛の蛇の存在は後のメキシコ文明に受け継がれ、マヤ文明では「ククルカン」アステカ文明では「ケツァコアトル」と呼ばれています。なぜ古代メキシコの人々は蛇を信仰の対象としていたのでしょうか。

羽毛の蛇は「金星」を表しており、羽毛の蛇は天から頭飾りを運び地上の王にわたす存在であると言われているそうです。すなわち、古代メキシコ文明において王の権利は天?宇宙?の神から授けられたものであるといったところでしょうか。 

王の冠にはシパクトリ神が掘られている。

 

テオティワカン文明の繁栄は西暦550年まで続きますが突如600年の歴史に終わりを告げる事となります。文明衰退の原因は一説には水不足によるものとも考えられているそうですが、未だにわかっていません。天体を観測し、蛇を神の使いとして信仰する点は日本の縄文文化とも共通点があるように思います。

 

古代日本における星神信仰

古代の日本にも星神信仰があります。例えば以前の記事では丹後半島近くの久美浜町の神社に残された石の隙間から北極星が見えるように加工されていた巨石を紹介させていただきました。丹後半島⑥丹波道主命と久美浜と鬼滅の刃

 rekitabi.hatenablog.com

 

 

巨石を用いた天体観測施設が日本各地に残されている事から縄文時代の人々は夜空を眺め、天体の運行を観察していた事がわかります。そして、飛鳥時代に編纂された『日本書紀』にも星の神に関する記載が残されているのです。

 

星の神 天津甕星(あまつかみぼし)とは?

古事記には登場せず『日本書紀』の葦原中国(アシハラノナカツクニ)平定神話に登場する神で、天香香背男(アメノカガセオ)、香香背男(カガセオ)とも呼ばれます。葦原中国平定では高天原という天に住む神と葦原中国という地上にすむ神の戦いが描かれている部分にあたりますが、アマツカミボシは地上の神としてこの戦いに参加しています。

 

葦原中国平定神話とは?

はるか昔、天にある高天原を追放された素戔嗚尊(スサノオノミコト)は地上で8本の首を持つ大蛇八岐大蛇ヤマタノオロチを倒し地上に国を作る。この国が葦原中国であり、スサノオの子孫である大国主によって国は繁栄を極めていた。それを見た天にある高天原(タカマガハラ)の天照大神(アマテラスオオミカミ)は天の神々を地上におくり、葦原中国天照大神に譲るように交渉させた。その結果、大国主が治める国は高天原に譲られる(出雲の国譲り)事となったが、それに従わない地上の神々が反乱を起こし天の神々との戦いが起こった。

これを葦原中国平定神話と呼びます。

 

鹿島神宮天津甕星(あまつかみぼし)の謎

高天原からやってきた経津主(フツヌシノカミ)・建御雷神(タケミカヅチ)によって地上の神々は次々と平定されたが、星の神香香背男(カガセオ)だけは征服できなかった。そこで倭文神建葉槌命(シトリガミタケハヅチノミノト)を遣わしたところやっと服従した。と『日本書紀』では語ります。 

 

日本書紀』第二の一書では天の神に設定変更されており、フツヌシノカミとタケミカヅチ高天原にいる天香香背男(アメノカガセオ)、別名天津甕星(アマツカミボシ)を倒してから葦原中国平定にいきたいと発言しています。

 

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タケミカヅチが祀られている茨城県の「鹿島神宮」にはアメノカガセオに関する社伝が伝わっている事からもタケミカヅチの因縁の相手だったことがわかります。

鹿島神宮静神社の社伝によれば、タケミカヅチは香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)アメノカガセオは常陸の大甕(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70km)を根拠地にしており、派遣されたタケハヅチノミコトは静の地(大甕から西方約20km)に陣を構えて対峙した。タケハヅチノミコトの陣は、茨城県那珂郡瓜連(うりづら)町の静神社と伝えられる。

 

以上から、天の神タケミカヅチと地上の神アメノカガセオの伝説は、関東地方での中央勢力と地方勢力の抗争がモデルになったと考える事ができます。『日本書紀』ではアメノカガセオが星の神として紹介されている事から、星を信仰する部族である縄文人が、大和政権によって服従させられていく過程を描いた神話と見る事もできそうです。

 

江戸時代の国学者平田篤胤は「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであり、神威の大きな星を示す事から「金星」の事であると説明しています。後世には、北極星の化身、妙見菩薩と同一視されたようです。その名残なのか全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としています。

 

出雲地方に残る日本の蛇神信仰

日本では古くから蛇を神の使いや神として信仰してきました。その名残は日本全国に残っており、例えば神社のしめ縄飾りも日本の蛇が絡み合う姿では?と考える人もいます。

↑出雲大蛇のしめ縄

 

日本の蛇神にまつわる神話を一つ紹介します。奈良県に「大神神社(おおみわじんじゃ)」と「三輪山」があります。大神神社御神体(拝む対象)は三輪山であるため、本殿がない事が特徴です。『古事記崇神天皇の時代の三輪山の神話には蛇神が登場します。

 

その昔、河内に活玉依媛(イクタマヨリヒメ)という美しい女性がいました。その女性の元に夜な夜な通ってくる麗しい男性がおり、麗しい人に糸をつけると、その糸がスルスルと伸びていき、三輪山の神社に続いており、その人が神様(大物主という出雲の神)である事が判明します。しかもこの神は大蛇であったと言われますが。この時、糸が三巻分残った事からその他を三輪と呼ぶようになり、子孫の大田田根子崇神天皇によって、大神神社の神主に任命されたと記載されています。

 

↑出雲地方では10月頃になると暖流に乗ってきたセグロウミヘビが海岸に打ち上げられる。

 

また、出雲地方でも蛇は神、あるいは神の使いとして信仰されており、海蛇が漂着した際には神社に奉納する習わしがあるそうです。

 

まとめ

古代メキシコ文明では命の源である雨を神格化し、天候を予測するために天体を観測した。文明を統治する王は神の言葉を聞く力を持つ力があるとされ、王の権利は天の神から、神の使いである蛇によって授けられるものだった。

 

古代日本の縄文文明における巨石信仰や弥生時代の自然信仰やシャーマニズムなど共通する事が多いことから、1万3000年前にシベリアからアメリカ大陸に渡った一族と日本列島に渡った一族は元は同じ文化を持っていたのかもしれませんね。

 

ブラックパンサー続編、ワガンダフォーエバーで登場するヴィランは羽毛の蛇の化身です。「ククルカン」や「ケツァコアトル」と呼ばれています。

 

小学校の頃アニメで見たシャーマンキングヤマタノオロチ号がカッコ良すぎて。社会人になって再びヤマタノオロチに出会うとは思いませんでした。