古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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ゴールデンカムイと日本史:新選組の土方歳三の刀「和泉守兼定」とは?

今回は刀の由緒や土方歳三とのエピソードを紹介します。

 

戊辰戦争の最後の戦いである箱館戦争に参加した土方歳三は4本の刀を所持していたと言われています。

 ①和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)

堀川国広(ほりかわくにひろ)

③越前康継(えちぜんやすつぐ)

④大和守源秀国  (やまとのかみみなもとのひでくに) 

 

和泉守兼定についてまとめていきます。

和泉守兼定とは?

土方歳三が所有していた刀で一番有名なのは「和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)」です。

ゴールデンカムイでも土方歳三が小樽の銀行から盗み出していましたね。

 

刀工 :十一代会津兼定

時期 :①文久3年(1863年)※消失   

    ②慶応3年(1867年)※現存

サイズ:①2尺8寸(約84.8㎝)     

    ②2尺3寸1分6厘(約70.2㎝)※現存

 

会津藩のお抱え刀工だった会津11代和泉守兼定が作ったものとされています。

和泉守兼定」は会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)から下賜されたと伝えられています。

なぜ会津のお殿様が土方歳三に名刀を与えることになったのでしょうか。関係性をみていきましょう。

新撰組会津藩の関係とは?

簡単に言うと会津藩新撰組の上司にあたります。詳しく知るために当時の日本の状況をざっくりまとめました。

 

江戸時代末、徳川家康江戸幕府を始めて以来およそ300年日本は鎖国政策を貫き外国との取引を制限していました。 しかし、江戸末期になると日本近海に外国船が現れて交渉を迫るようになってきます。

衝撃的だったのがアメリカの海軍軍人ペリーが黒船にのって浦賀に現れた事件です。外国船の来航により鎖国政策の維持が難しくなる中で、外国船を追い出し鎖国を維持しようとする「攘夷論」や政治の中心は幕府ではなく「天皇」に戻すべきであるとする「尊王論」が登場してきます。 

尊王攘夷運動家の中には過激な者もおり、意見が異なる相手を武力で倒す者まで現れました。京都には尊王攘夷運動家や雇われた人斬りが集まり治安が悪化していたのです。

 

江戸幕府は京都の治安を安定させるための警察組織として、会津藩の藩主松平容保公を京都守護職に任命します。

 

しかし、会津藩が直接尊王攘夷運動家(水戸藩薩摩藩長州藩土佐藩藩士が多い)を取り締まってしまうと、他藩からの恨みを買うため、会津藩士ではない浪士組(主君を持たない武士)を募集して新選組に治安維持を任せたのでした。

 

新選組の前身である壬生浪士組は、文久3年(1863年)3月15日に会津藩が預かる(=管轄する)ことで発足し、同年8月には「新選組」となります。  その新選組副長を務めることになった土方への期待から松平容保会津が誇る名刀を与えたのではないでしょうか。

 

和泉守兼定はなぜ小樽にあったのか?

ゴールデンカムイでは和泉守兼定小樽の銀行に保管されている設定になっていました。箱館戦争で使用された刀がどのように小樽にたどり着いたのでしょうか。

ゴールデンカムイ質問箱Q &A保管庫

4巻34話で土方が銀行に取り戻しに行った和泉守兼定ですが、何故北海道の銀行に流れ着いたのでしょうか?箱館戦争時、日野にいる土方の義兄に送られたという話をよく見るので…。

A.013 野田先生より寸違いの兼定を複数持っていたという説もあるんですよ。

https://youngjump.jp/goldenkamuy/contents/qa/beginner.html

 

とあるように和泉守兼定は2本存在していたと言われています。

 

1本は、土方の生家、「土方歳三資料館」に現存しています。
歳三の生家 土方歳三資料館|東京都日野市 (hijikata-toshizo.jp)

 

もう1本は、文久3年(1863年)10月20日、  土方の義兄であり、新選組後援者の佐藤彦五郎へ近藤勇が送った手紙の中で確認されています。

 

 「土方氏も無事(に)罷りあり候。ことに刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差一尺九寸五分堀川国広

一本は現在どこにあるのかわからなくなってしまっていますが、これがゴールデンカムイでは小樽に保管されていたという設定なのですね。