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劉淵!晋の滅亡と五胡十六国時代の始まり

今回は匈奴の貴公子「劉淵(りゅうえん)」をご紹介します。

 

「劉」といえば、漢を開いた劉邦や蜀を開いた劉備玄徳など、漢民族のイメージがありますね。

 

劉淵漢王朝の生みの親である劉邦をボコボコにした北方遊牧民匈奴(きょうど)の末裔でありながら、なぜか漢王朝を開いた人物なんです。

 

劉淵の登場が北方遊牧民族が次々と王朝を立てていく大乱世「五胡十六国時代」の幕開けとなります。

 

匈奴とは

北方民族「匈奴」な存在は『キングダム』でお馴染み戦国時代あたりから史書に登場しはじめます。

秦の始皇帝が天下を統一(紀元前221 年)した後も北方の脅威であったため、始皇帝は備えとして「万里の長城」を築城しています。

始皇帝の死後、項羽と劉邦の戦っている間に冒頓単于(ぼくとつぜんう)が現れモンゴル高原遊牧民帝国を作ります。

 

冒頓単于は中華の地を統一して漢を開いた劉邦と戦って破り匈奴漢王朝より上に立つこととなります。その後漢王朝は貢物を送ったり、公主(皇帝の娘)を嫁がせたりと平身低頭を続ける時代が続いています。

漢王朝7代目の武帝の時代になると状況が一変します。武帝匈奴を弱体化、分裂させ西匈奴を滅ぼしています。

 

1世紀の中頃に入ると匈奴内の内乱と大飢饉が発生し北匈奴南匈奴に別れ、北匈奴は消滅、南匈奴漢人に服属するようになります。

 

つまり、この頃の匈奴は独自の国家を持たずに万里の長城の内側にいたことがわかります。このような時代に生まれたのが劉淵です。

 

劉淵とは

中国北部の山西省付近に残った南匈奴の王である単于の子孫であったので、みずからも単于の一人左賢王を名乗ってました。

加えて、匈奴単于は代々漢の王室と通婚していたので、中国名を名のる際には漢王室の姓である「劉」を名乗っていました。  

 

当時、五胡のひとつとされた匈奴は晋に服属し、漢民族との同化が進んでいたが、北方民族の伝統を色濃く継承しており、劉淵自身は身長1.9mあったうえ、武術を良くし、そのうえ漢民族の教養(孫子呉子、春秋左氏伝、史記漢書など)も身につけており、青年の時に洛陽に出て(魏の人質?)名士と交わり、尊敬を集めていたといわれています。

西晋成都王、司馬穎(えい)は晋王室の八人の皇子(八王)の一人として帝位継承を狙っていました。

 

八王の乱が起こると匈奴の本拠地が成都と近かったことから、その力を借りるため、左賢王劉淵匈奴の統率者に任命します。

 

劉淵はその要請に応えて匈奴を召集、この機会に匈奴が自立することをねらい、軍隊5万人を集めるとともに大単于の位(匈奴を初めとした北アジア遊牧国家の初期の君主号)につきます。

 

漢王朝の復活

劉淵は左国城を取って都とすると、中国人も支配下に入ったので、304年10月、漢の創始者劉邦になぞり「漢王」と称して独立を宣言。国号を漢とし、中央政府漢王朝風の百官を定めました。

 

308年にはついに劉淵は皇帝に即位し、胡漢のハーフである劉淵は胡漢両方を統べるはじめての王朝として君臨したのです。

 

劉淵匈奴である自身が帝王となることについて、「漢族が聖王と讃える夏王朝の始祖禹(う)は西方出身の異民族であり、周を開いた武王の父の文王も聖王と呼ばれ尊敬されているが東方の異民族の生まれである。帝王になれるかどうかは生まれによるものでなく、授けられた徳によるものだ」と宣言して即位したといいます。

 

劉淵の言葉は異民族達に勇気を与え、世はまさに五胡十六国に突入していきます!

 

 

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