316年の大国晋の匈奴降伏は東アジアを震撼させました。
現在でいうとアメリカが降伏した並の衝撃だったのではないでしょうか。
日本はそれまで続けていた中国の皇帝に朝貢を中止したので、中国の歴史書に日本が登場しない「空白の150年」と呼ばれています。
これは、中華思想に基づき漢族の末裔(姫姓の呉)である倭の王が夷狄を中国の王と認めなかったためでしょうか。
晋の滅亡によって周辺国は富国強兵、弱肉強食の戦乱の時代に突入時します。
例えば、晋の支配が弱くなった楽浪郡へ高句麗が進撃し滅亡させ、朝鮮半島へ南下していきます。
朝鮮半島南部の百済や新羅は高句麗に対抗するために倭国に援軍を求めます。
当時は朝鮮半島南部、対馬、九州は活発な交流があったためです。
朝鮮半島へ出兵するために日本列島各地からを多くの兵を集める必要がある中で、東へ勢力を拡大していった時代、それがちょうどヤマトタケルの時代なのではないかと思います。
ヤマトタケルとは?
ヤマトタケルは第12代景行天皇の子で小碓皇子(おうすのみこ)と名付けられました。
少しサイコパス的なところがあり兄の大碓皇子を殺してしまうことで、父の景行天皇に警戒され、危険な地へ何度も派遣されますが、毎回敵を討伐して戻ってくる豪傑です。
ヤマトタケルは九州、出雲、関東を平定して最後は伊吹山(滋賀県と岐阜県の間)で倒れるという悲劇の皇子です。
ヤマトタケルの時代はいつ?
ヤマトタケルの時代はいつでしょうか?
ヤマトタケルの父景行天皇は記紀によれば紀元前13年に生まれ、西暦130年に亡くなったとされています。 超長生き。
実際のところは実在した天皇から系譜を遡ってゆくと景行天皇は210年ー290年に生まれたと考えられ、3世紀後半〜4世紀中旬の人であろうと考えられます。
晋が滅びたのが316年、中国、朝鮮が激動の戦国時代に突入した時期に生まれたのがヤマトタケルであったと考えています。
そうなると、ヤマトタケルの物語はただの神話ではなく、富国強兵のため、支配勢力を増やすための軍事侵攻を現しているのではないでしょうか。
ヤマトタケルはどこまで東征した?
第12代景行天皇の時代に武内宿禰が東日本を偵察にいき、男女共に入れ墨をする豊かな日高見国があると報告し、景行天皇は息子のヤマトタケルに東征を命じた。との記載があります。
この頃の日本は九州には熊襲(くまそ)、東日本には蝦夷(えみし)がおり大和政権に従わない勢力として認識されていました。
日高見国とは蝦夷の国だったのでしょうか?
長野県中野市に日高見神社あることから飛騨山脈から東側から東北地方に至るまで日高見国の勢力であった可能性も考えられます。
宮城県石巻市にも日高見神社があります。石巻市を流れる北上川も元は日高見川だった説もあるそうです。
日高見神社の伝説によると、日本武尊(ヤマトタケル)は上総から海路陸奥に入り竹水門(七ヶ浜塩釜港附近)から日高見の国に到り賊を平定し、皇祖天照大神を祀って日高見神社が建立されたと伝えられています。
ヤマトタケルの頃から天照を皇祖神として祀っていたから信じがたいので怪しいですがこのような伝承は残っているようです。
日高見神社には興味深い別の伝承も残っています。
古来この地方に伊勢津彦尊が居住しており、高皇産霊神の子孫天日別尊に亡ぼされる。尊はそれを皇孫に奉ったとあり、神武天皇の御世に天日別尊を祀って日高見宮としたと伝えられる。
伊勢津彦といえば、伊勢の地に住んでいた国津神でしたが、神武天皇に派遣された天日別命(後の伊勢国造)に追い出され東国に行ったとの『伊勢国風土記』にあります。
遠く離れた宮城県に伊勢津彦の伝説が残っているのは面白く、伊勢の人が移住したのでしょうか。
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ヤマトタケルを導いた狼
実在した天皇から系譜を遡ってみた