古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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ヤマトタケルの最期 死因は?

 

古代史の英雄ヤマトタケル第12代景行天皇の命で大和朝廷に従わない西の熊襲や東の蝦夷を討伐した人物として古事記』『日本書紀』に記されています。

 

東征を終えたヤマトタケルは大和へ向かう帰路の途中で山の神の怒りに触れて病にかかり力尽きてしまったとされていますが、いったい何の病だったのかは謎です。

 

そこで今回はヤマトタケルを死に追いやった病とは何であったのか見ていきたいと思います。

目次

 

日本武尊(ヤマトタケル)とは?

はじめに『日本書紀』と『古事記』で若干ストーリーやヤマトタケルの性格に違いがあります。『古事記』の方が物語色が強く、『日本書紀』は天皇賛美が強く現れています。 おおよその流れは同じです。

ヤマトタケルは第12代景行天皇の子で、第14代仲哀天皇の父です。大和朝廷全国統一のため父である景行天皇の命を受けて東西へ遠征した様々な武勇伝は日本神話の中でも人気の高い物語のひとつです。

三重県亀山市ホームページに『日本書紀』のヤマトタケルのわかりやすい行程がありました。ヤマトタケルの伝説については別の記事でまとめていますので参照ください。

ヤマトタケルの最期

東国の蝦夷を従えた日本武尊は、ふるさとの倭国(やまとのくに)へと歩みを進めます。その途中、伊吹山(滋賀県岐阜県の間)の荒ぶる神を倒しに山へ向かいました。  日本武尊は、山中で出会った大蛇が姿を変えた神であったことを見抜けず、また大切な草薙剣も持たずに山へ向かったため、山の神の怒りに触れ、病気になってしまいました。  それでもなんとかふるさとへ帰ろうとしたものの、「能褒野」で力尽きて亡くなってしまいました。日本武尊の死を聞いた父・景行天皇は、能褒野に墓を造らせました。墓へ亡きがらを納めると、日本武尊は白鳥となって飛び立っていきました。(亀山市ホームページより)

 

ヤマトタケルの最期はざっくり上のようになりすが、病の部分に詳しく注目してみましょう。

 

古事記

素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と無視するが、実際は猪は神そのものであった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。 弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなる。

 

日本書紀

伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。

 

このように屈強だったヤマトタケルは山の神が降らせた氷雨で体を冷やした事で、意識が朦朧とし、失神してしまっています。古代では病は神や呪いが原因だと信じられていますが、ヤマトタケルは何らかの病に冒されていたのではないかと思います。

 

 

ヤマトタケルの病はギランバレー症候群?

神経内科の小長谷氏はヤマトタケルはギランバレー症候群であったと主張しています。

 

ギランバレー症候群とは呼吸器や消化器の感染症をきっかけに、原因菌を倒そうとした免疫が自身の体(特に中枢神経)を攻撃してしまう病気です。

 

ギランバレー症候群になると、手足がしびれ、やがて筋力低下が起こります。筋力低下が進行していくと重度の場合、手足が動かせなり、歩行不能になることもあり、呼吸を司る筋肉が麻痺(全体の約10%)すると自身の力で呼吸ができなくなり、人工呼吸機を装着する必要が出てきます。

 

重症になるほど自律神経障害を伴うことが多いとされており、頻脈、徐脈、高血圧、起立性低血圧が起こるため意識を失うこともありそうです。

 

山中で氷雨に打たれて体を冷やしたヤマトタケルは、感冒(風邪)症状を発症して、それが引き金となってギランバレー症候群となってしまのではないでしょうか。

 

日本神経学会より