前回の記事では355年第16代仁徳天皇の頃、百済人から鷹狩りが伝えられたと書きました。
4世紀当時の東アジア事情から百済人が日本に来た理由を考察してみます。
4世紀の中国は?
デイリー新潮より
当時の中国では、三国志で有名な司馬懿仲達の孫、司馬炎が建てた西晋が滅びたことで東アジアはカオスな状態でした。
司馬炎は280年に呉を滅ぼして中国を統一した人物です。司馬炎の死後まもなく司馬一族の内紛から八王の乱(290年から306年)が起き、急速に衰退していきます。
司馬一族は異民族の五胡(ごこ)(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢民族)を戦いに導入した結果、五胡に河北を奪われてしまい、311年には匈奴が都洛陽を制圧(永嘉の乱)、さらに316年に長安が匈奴に奪われて晋は滅亡します。
4世紀の朝鮮半島は?
世界史の窓より
中国が乱れている隙を狙ったのが高句麗(こうくり)で313年に楽浪郡(らくろうぐん)(漢民族政府が置いた統治機関)を、314年に帯方郡を滅しています。
楽浪郡と帯方郡が滅亡したことは、漢民族による朝鮮半島支配が終わった事を意味しており、韓民族による国が形成されていきます。
朝鮮南部の韓民族の馬韓・辰韓がそれぞれ統一されて百済・新羅が成立、高句麗とともに三国時代を迎えることとなります。
このとき滅亡した西晋や楽浪郡から亡命した漢民族が日本に入ってきたことも予測されますね。
日本は空白の4世紀?
このように中国での戦乱によって、漢民族に支配されていた朝鮮半島で独立の動きが高まったのが4世紀前半の東アジアであったとわかりました。
その頃の日本はどうなっていたのでしょうか。
日本史ではこの頃の日本を「空白の4世紀」と呼んでいます。
この時代にかかれた日本でかかれた文字が残っていないので、中国の史書頼りになるのですが、中国で上記のような内乱がおきたせいで日本の事を書いてくれていないわけです。
空白の4世紀の期間は『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にある邪馬台国の新女王台与(とよ)が266年に朝貢をした記録が最後で、次に『宋書』などに現れる「倭の五王」までが何も情報がない150年間とされています。
文字の記録はないものの、考古学的には3世紀後半~5世紀初頭にかけて前方後円墳が大和(やまと)から広がりを見せており、大きな時代の転換点であったことは間違いありません。
おそらく4世紀前半までにヤマト政権による国土統一が行われ、後半には朝鮮半島南部へ進出したのだろうと考えられます。これを物語るこが『好太王碑』と呼ばれる現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑です。
空白の4世紀を埋める広開土王碑とは?
広開土王碑は高句麗の王、好太王の業績を称えるために、子の長寿王が作成したもので、碑文によると「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとされています。
広開土王碑には「辛卯の年(391年)に倭の勢力が朝鮮半島北部近くまで押し寄せて来たので高句麗が撃退した」と記されています。
「好太王は396年に水軍をひきいて百済を討伐した」ともあり、百済を討伐だけで被害の規模を推測するのは難しいですが、少なくとも高句麗軍と百済軍の戦いがあったことはわかります。この時に倭軍と一緒に日本に逃げ延びた百済人がいてもおかしくなさそうです。
広開土王碑によって4世紀後半の倭人は海を越えて朝鮮半島まで出兵する兵力を持っていたことがわかりますが、130年は依然として空白のままです。
次回は空白の4世紀を語る上で720年にかかれた『日本書紀』は信頼できないとされていますが、日本書紀の力を借りて話を進めていきたいと思います。
おまけ:五胡十六国時代とゲルマン人の大移動
アジアにおける五胡の活動は、同じ4~5世紀こユーラシア大陸の西方でも「ゲルマン人の大移動」となって現れています。
世界史の大きな動きとしての民族移動のひとつと見ることができ面白いですね。
富雄丸山古墳が空白の4世紀の謎を解く?