古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きなサラリーマンが全国を旅した発見を書き連ねます。

尊王攘夷運動の始まりは水戸学

日本史を勉強する中で江戸幕府が滅びた背景として、国内における尊王攘夷運動の広がりが、倒幕派を生んだと習いましたが、そもそもなぜそのような運動が流行したのかは考えたこともありませんでした。

 

鹿島神宮へ訪れる中でそのヒントを見つける事ができたのでまとめてみたいと思います。

 

 

 

尊王攘夷運動とは

 

Wikipediaによれば「尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している」とあります。

 

攘夷とは漢字の通り、攘は追い払う、夷は蝦夷(えぞ、えみし)と言うように、外国人を未開の地として蔑む蔑称の意味があります。

 

幕末になると産業革命に成功した欧米の船が日本近海に出没するようになるので、鎖国下にあった日本が外国人を追い払おうとする事は想像にしやすいです。

1853年にはペリーが浦賀に来航して幕府に開国を迫ると、いよいよ鎖国を辞めざるを得ない状況になってきます。

 

ところが、時の天皇孝明天皇は外国人を打ち払う事を命じるなど、鎖国反対派だったので、「幕府は天皇のお考えを尊重するべき!」とする考えから尊王攘夷運動が巻き起こったのでした。

 

ここで疑問なのが徳川家康が戦国時代を終わらせ、徳川家康江戸幕府を開き戦国時代を終わらせた時代は天皇を敬う思想はこれほど強くなかったように思います。武士達は天皇よりも主君や、徳川家に対する忠誠を誓っていたためです。

 

それでは、いつ「尊王」が唱えられるようになったのか、その鍵は水戸藩にあると考えます。

 

 

水戸藩の思想

水戸藩といえば徳川御三家でありながら、尊王攘夷運動の中心的な存在であるという非常に不思議な立ち位置におり、謎が多い藩です。

 

例えば、桜田門外ノ変(1860年安政7年3月3日)で大老井伊直弼を暗殺した中心人物は水戸藩を脱藩した17名と薩摩藩士1名と言われています。

 

なぜ水戸藩徳川御三家でありながら、尊王の方向に進んでいったのでしょうか。

 

徳川頼房像(Wikipediaより)

水戸藩の始まりは、徳川家康江戸幕府を開いた時に遡ります。徳川家康は11男の徳川頼房水戸藩主として任命します。

徳川頼房の子がかの有名な水戸黄門として知られる3男水戸徳川光圀公です。

 

徳川光圀歴史学に関心を持っており、日本の歴史書である『大日本史』の編纂を始めた事で有名です。徳川光圀の死後も水戸藩の事業として継続され200年間継続せれ明治時代に完成しました。

 

内容は神武天皇から100代天皇後小松天皇までを漢文でまとめており、引用にも気を配るなど学術的で、編纂に携わった人々は「水戸学派」と呼ばれています。

 

つまり、水戸光圀をはじめ水戸学派の水戸藩士達は、徳川将軍家の家臣でありながら、徳川家の歴史ではなく、天皇家の歴史を日本の歴史として編纂しているのです。

 

水戸学と尊王攘夷

5代将軍徳川綱吉朱子学を採用しました。朱子学とは儒学から発展した学問で目上の人を敬う事の大切さを説きます。朱子学によって主君への忠誠、規律を強化する事で幕府の権力を強めようと考えたのです。

 

上下関係を重視し目上の身分を敬う価値観が、刷り込まれる中で、水戸学派は違和感を覚えたに違いありません。

なぜなら、江戸幕府の将軍(征夷大将軍)とは、古来、天皇の命令により蝦夷(えみし)征討のためにつかわされた軍隊の総大将であり、源頼朝鎌倉幕府を開いた以降は、幕府の長に過ぎないからです。

 

元々は天皇によって任命される武士団の棟梁にすぎなかったにも関わらず、武力を背景に天皇を倒した承久の乱によって、天皇よりも将軍の立場(発言力)が強くなっていき、政治の実権を握っていたのです。

 

水戸学派からすれば、忠義を尽くすべき相手は将軍ではなく天皇と考えたのです。

 

 

水戸光圀鹿島神宮

 

なぜ水戸光圀歴史学に興味を持ったのか、それは水戸光圀の生まれた環境にあったように思います。

鹿島神宮 奥宮 (徳川家康関ヶ原の戦勝の御礼に本殿を奉納したものが奥宮に移動された)

水戸光圀が生まれた常陸国水戸藩には常陸国一宮鹿島神宮が鎮座してます。鹿島神宮の祭神である武甕槌大神は武神として信仰を集めており、代々徳川家からも大切にされていました。

鹿島神宮 楼門 (徳川家光の病気平癒を祈願した初代水戸藩徳川頼房が奉納した)

 

歴史学に興味を持った水戸光圀が故郷にある鹿島神宮を調べなかったはずがありません。鹿島神宮に祀られている武甕槌大神の存在が、天皇を中心とした『大日本史』の編纂に影響を与えているのではないかと考えます。

 

 

鹿島神宮 要石

 

鹿島神宮の要石の説明によれば、 『水戸黄門仁徳録』によれば、水戸黄門の命令で要石7日7夜掘ってみたが、ついに底は見えなかったと記載があります。『水戸黄門仁徳天録』は絵入り娯楽小説で、正規の記録でなく、神社側にも記録はないようなので、正規の記録ではありません。しかし、歴史学に興味があった水戸光圀が祖国の神社を訪ねて歴史を調べなかったとは思えないのです。

 

まとめ 

 

 

幕末に広まった尊王攘夷運動の波は全国に伝播しやがて300年間平和をもたらした江戸幕府を崩壊させました。

 

その根幹となった将軍よりも天皇を尊重する思想が生まれた背景には、水戸光圀が編纂を命じた『大日本史』があり、水戸光圀の生まれ故郷である常陸国が『古事記』『日本書紀』における日本建国神話と深い関わりがある地域である事は無関係ではないと考えます。

 

鹿島神宮に関する過去の記事↓

rekitabi.hatenablog.com