今から3100年前に北東北、南北海道で亀ヶ岡文化が起こりました。縄文時代の遺物として有名な「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」を生み出した文化です。
遮光器土偶は何のために作られたのか?考察してみました。
遮光器土偶の時代
目次
遮光器土偶を生んだ亀ヶ岡文化とは?
縄文時代中期以降の寒冷化によって日本列島の人口が減少する中で、人口密度をもち、遮光器土偶を始めとする特徴ある祭祀遺物を残したのが亀ヶ岡文化です。
代表的なのは「三内丸山遺跡」ですね。
亀ヶ岡文化が栄えた3100〜2400年前は寒冷化により日本列島の人口が減少していった時期にあたります。
そんな時代に作られたのが遮光器土偶です。
遮光器土偶とは?
目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけらました。
北の縄文展より
青森県亀ヶ岡遺跡で発見されたものが有名ですが、実は東北地方のあちこちの縄文時代の遺跡から出土しており、当時のブームであったことがわかります。
遮光器土偶が出土した場所
遮光器土偶は何のために作られたのかは今だに議論されている謎です。豊饒の象徴である妊娠女性を表している、目に見えない精霊の姿を表現している、最近では木の実をかたどっているという新説も出てきました。
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私はズバリ、「三星堆遺跡(さんせいたいいせき)のオマージュ」だと考えています。
三星堆遺跡とは?
三星堆遺跡(さんせいたいいせき)は5000年前から約3000年前頃に中国四川省広漢市で栄えた古蜀文化の遺跡で青銅器製の遺物が多く発見されています。
三星堆遺跡から出土した青銅器の仮面は横一筋の入った巨大な目は、遮光器土偶に似ており影響を受けたのではないかと思うのです。
亀ヶ岡文化にはガラス玉、青銅製刀子をコピーした石刀などが作られており、大陸から伝わった青銅器を日本の材料で表現しようとしたように思われます。
殷の滅亡が3046年前、三星堆遺跡の衰退も3000年前で亀ヶ岡文化の始まりが3100年前です。
寒冷化により中国では戦乱が起こり、殷と古蜀が滅亡し、日本列島に流れてきた移民が東北地方に流れ着き融合した文化。それが亀ヶ岡文化なのではないでしょうか。