鷹匠(たかじょう)埴輪と呼ばれる上の埴輪です。
肩には鳥を乗せて右手にはグローブをはめており、鳥は鈴をつけており、まるで鷹匠をかたどったようにみえます。
鷹匠埴輪が見つかった太田市城西町の「オクマン山古墳」は 古墳時代後期(6世紀末)の円墳なので、今から1300年前の古墳時代に鷹匠がいたということなのでしょうか。
鷹匠の歴史
鷹匠ってそんなに昔からいたの?
と疑問に思い歴史を調べてみました。
鷹を訓練し、野生の状態の餌をとる鷹狩りの歴史は古く、中央アジア、モンゴル高原4000年以上前に発祥したとネットの記事を見つけました。
4000年前というと、日本は縄文時代で中国は伝説の夏王朝の時代となりますが、根拠が不明でした。
早稲田大学大学院文学研究科の論文によれば「鷹狩りは、紀元前 1000年頃の中央アジアに端を発し、そこからユーラシア大陸各地に広がった」とあります。
紀元前1000年前といえば日本では遮光器土偶が造られていた時代で寒冷化により暖かい場所を求めた人々によって鷹狩りの文化も広がっていったのでしょうか。
それでは、日本に鷹狩りが伝わったのはいつなのでしょうか。
日本書紀によると鷹狩りのルーツは百済?
『日本書紀』巻第十一には、以下のような説話が掲載されています。
仁徳天皇43年9月(推定353年)、依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)が、「異しき鳥を捕りて」天皇に献上した際に、「私は、いつも網を張って鳥を捕りますが、未だかつてこのような鳥の類を得たことがありません。そこで、奇妙に思い、献上しました」と申し上げた。天皇は2年前にとあることがきっかけで来朝した百済王族の酒君(さけのきみ)を呼び出して、鳥を示して「これは何という鳥だ」と尋ねた。酒君は「この鳥の類は百済に多く存在し、馴らすことができれば人によく従い、またはやく飛んでもろもろの鳥を捕ります。百済の人はこの鳥を名づけて『倶知』(くち)と言います」と答えた。 天皇は酒君に授けてこの鳥、すなわち鷹を養わせ、ほどなくしてその鳥は酒君に馴れ、韋(おしかわ=なめし皮)の緡(あしお、つりいと)を足につけ、小鈴を尾につけて、腕(ただむき)の上にとまらせ天皇に献上された。この日、天皇は百舌鳥野(もずの)に行幸して遊猟をした。その時雌雉がたくさん飛び立ち、そこで鷹を放って捕らせると、たちまちのうちに数十羽を獲得した、という。 天皇は是の月に鷹甘部(たかかいべ)を定めた。時の人は、鷹を養う場所を鷹飼邑と名づけた、という。
355年という時期ですが、実在が確かな天皇からさかのぼると仁徳天皇の誕生年は330-370年と推測できるのでおおよそ正しいと考えます。過去記事参照。
屯倉(みやけ)とは大和朝廷の直轄地のことで、依網は現在の大阪市住吉区にある大依羅(おおよさみ)神社周辺だと考えられています。
阿弭古(あびこ)は日本古代の姓(かばね)として使われていたとわかっており、個人の名前というよりも屯倉の職員の役職かもしれません。
鷹を調教したとされる酒君(さけのきみ)は『日本書紀』仁徳天皇41年に紀角(きの-つの)が百済につかわされたときに捕らえられ、日本におくられたとあり百済人であるとわかります。
つまり、日本の鷹狩文化は大陸(朝鮮半島)から伝えられた文化のひとつであったとわかります。
なお、仁徳天皇が設置した鷹甘部(たかかいべ)は後の時代まで天皇直轄機関として続いていたようで、令制においても、主鷹司が兵部省に所属しており、品部として大和国・河内国・摂津国に鷹養戸として17戸があったと記されています。 仏教が盛んになり平安時代に廃止されるまで続いたようです。
鷹司埴輪を考察する
355年に大阪に伝わった鷹狩りをかたどった埴輪が200年後にどうやって群馬に伝わったのでしょう?
以下のような疑問が生まれました。
①大和政権の影響力が群馬まで及んでおり鷹狩りの文化だけが伝わったのか?
②鷹狩りの技術を持つ百済人が入植したのか?
埼玉県行田市の稲荷山古墳(5世紀後半)の鉄剣と熊本県の江田船山古墳(5世紀〜6世紀初頭)の鉄刀に「獲加多支鹵大王」と同じ名前がある事から、関東〜九州を手中に治めた豪族がいたとするのが定説です。
また、群馬県太田市の太田天神山古墳(5世紀前半〜中旬)の石棺は畿内と類似しており交流があるとされています。
考古学的にみて、6世紀後半に①大和政権の文化として人づてで鷹狩りが伝わってもおかしくありません。
しかし、疑問なのが古墳時代の人は誰でも鷹狩りできるのか?ということです。
天皇がわざわざ鷹を育成する部署を作り、それが平安時代まで継承されているところを見ると、一部の特権というか、特殊な職業のようにも思います。
そこで、②の鷹狩りの技術を持つ百済人が群馬県まで来たのではないか?という説を追求して考えてみたいと思います。
次回へつづく。