前回の記事では埼玉古墳がある埼玉(サキタマ)の地名の由来について書きました。今回はさきたま古墳を一躍有名にした、100年に一度の大発見と評される「金錯銘鉄剣(キンサクメイテッケン)」の謎に迫っていきたいと思います。
- さきたま古墳と大仙陵古墳の類似点
- 古代の謎を解く鉄剣
- ヲワケの臣の祖先は大彦命なのか?
- 大彦命はヲワケの臣の先祖ではない?
- 鉄剣に刻まれた謎の都 斯鬼宮(しきのみや)
- 斯鬼宮(しきのみや)は奈良にあった?
- 斯鬼宮(しきのみや)は大阪にあった?
- まとめ
さきたま古墳と大仙陵古墳の類似点
鉄剣が出土したのはさきたま古墳公園の最北に位置する「稲荷山古墳」です。
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群で最初に作られたはじまりの古墳です。
稲荷山古墳の謎が大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇の陵に治定)と墳形が類似している事です。時代的には稲荷山古墳の方が50年ほど後になりますので、大仙陵古墳をモデルとしたと考えられでいるそうです。遠く離れた大阪の大和政権との関係性が想像されるわけですが、その謎を解く鍵が「鉄剣」に記されていたのです。
大仙陵古墳に関する記事↓
古代の謎を解く鉄剣
稲荷山古墳から出土した鉄剣には、115文字の漢字が刻まれており、「辛亥年」という417年にあたる年号と「獲加多支鹵大王」(わかたけるだいおう)との記載から、『古事記』『日本書紀』に記されていた21代雄略天皇が5世紀に実在した人物だった!という事が考古学的に明らかになり、そのインパクトから国宝に指定されることになったのです。
鉄剣に刻まれた文章を読んでいきましょう。
(表) 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比 (裏) 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事來至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」
「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾 天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(以上は裏面)」
めっちゃ長いですね…笑
まとめると、この剣を作らせたのはヲワケの臣。先祖代々杖刀人(天皇を警護する役職)として仕えており、ヲワケの臣はシキの宮でワカタケルオオキミに仕えていたときにこの刀を作らせた、とあります。
『古事記』によると21代雄略天皇の本名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)と記されており、鉄剣に記された「ワカタケル大王」と一致する事から雄略天皇の実在が明らかになったというわけです。
115文字という文字数は当時の日本はおろか、東アジアと比べても多いそうです。この剣が作られた場所がさきたまであるならば、漢字を使いこなす超インテリな人物がさきたまにいた事を物語っています。
ヲワケの臣の祖先は大彦命なのか?
鉄剣にはヲワケの臣のご先祖様の名前が連ねられているのですが、一番初めに登場するの名が「意富比垝(オホヒコ)」です。オホヒコについては『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命(オオヒコトミコト)」であるとの説があります。
オオヒコノミコトは『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」として登場する第8代孝元天皇の皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父です。
オオヒコノミコトの活躍は9代崇神天皇の時代に記されており、『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では大彦命を北陸に派遣したとあります。同時期に東海に派遣される武渟川別(タケヌナカワワケ)、西道に派遣される吉備津彦命(キビツヒコノミコト)、丹波に派遣される丹波道主命(タニハノミチヌシヨミコト)と合わせて「四道将軍」と呼ばれています。
オホヒコ=オオヒコノミコトとするならば、ヲワケの臣の一族は、先祖代々大和の大王に仕えて来た皇族であり、ヲワケの臣の時代に雄略天皇の命で関東平野のさきたまに赴任したと考えられるのではないでしょうか。
大彦命はヲワケの臣の先祖ではない?
9代崇神天皇の時代の架空の人物とされていたオオヒコトミコトによく似た名が刻まれている事は古代史のロマンを感じられずにはいられません。しかしながらオホヒコの子孫がヲワケの臣と主張するには不自然な点もあります。
鉄剣にはオホヒコの子はタカリノスクネとあります。しかし記紀に記される系図をみるとオホヒコの子孫にそのような人物はいないのです。
記紀には残されていないオオヒコノミコトの子孫が脈々と杖刀人の首という重要なポジションを継承してきたのでしょうか?
一説では「児〇〇」という鉄剣の記載は、その前の人物の子供であることを示すのではなく、役職の地位を継承した意味であるとの解釈もあります。例えば、『海部氏系図』においては親子関係にこだわらず、国造や祝の地位を継承した族長を「児〇〇」と記す例があるためです。鉄剣に記された人物達は親子ではなく、歴代の杖刀人の首達であり、雄略天皇の時代のトップがヲワケの臣と考えるとスッキリしますね。
海氏氏系図に関する記事はこちら↓
鉄剣に刻まれた謎の都 斯鬼宮(しきのみや)
鉄剣の大きな謎なのが、「斯鬼宮(シキの宮)」です。鉄剣には「雄略天皇がシキの宮にいる時にヲワケの臣が仕えた」と記されています。しかし記紀には雄略天皇が構えた都の中にシキの宮という都が記載されていないのです。シキの宮とはいったいどこなのでしょうか。
斯鬼宮(しきのみや)は奈良にあった?
記紀に雄略天皇が居住したとして記されるのは「泊瀬朝倉宮(ハツセアサクラノミヤ)」です。候補としては諸説ありますが、有力なのは奈良県桜井市黒崎もしくは桜井市岩板です。
伝承地は奈良県桜井市黒崎もしくは同市岩坂。奈良県桜井市黒崎にある白山神社の境内には「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建立されている。桜井市脇本にある脇本遺跡で、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見されています。考古学的には泊瀬朝倉宮の有力な候補地とされているそうです。
個人的にはハツセアサクラノミヤをシキノミヤとわざわざ言い換えて大切な鉄剣に記すのだろうかとモヤモヤを拭いきれません…
そこで色々調べてた結果、シキノミヤは大阪にあったのでは?との仮説を思いつきました。
斯鬼宮(しきのみや)は大阪にあった?
『古事記』の雄略天皇の時代にシキの宮に似た地名が登場する次の話があります。
雄略天皇は即位すると、若日下(部)王(ワカクサカベノミコト)を皇后に迎えるため、生駒山を越えて河内国(大阪)に到着した。
そこには屋根の上に堅魚木(カツオギ)がついた大変豪華な屋敷があるではないか。
カツオギ↓ 神社の屋根の上の丸太のような装飾。
雄略天皇は家臣に「あれは誰の家か」と尋ねると、志幾之大県主(シキノオオアガタヌシ)の家だと判明する。
雄略天皇は「まるで天皇の住居のように屋根に堅魚木をつけるとは、生意気だ」と怒ってこの家を壊そうとする。シキノオオアガタヌシは恐れて雄略天皇に白い犬を献上した。すると天皇の怒りはおさまった。
犬を献上されて怒りがおさまったとは、雄略天皇は大の犬好きだったのでしょうか。そのまま雄略天皇はワカクサカベノミコトの元へ訪問して、貰ったばかりの白い犬をプレゼントしています。不思議な話ですね。
それにしても屋根にド派手な堅魚木を乗せた家に住んでいたシキノオオアガタヌシとはいったい何者で、現在のどの地域にあたるのでしょうか?
大阪府藤井寺市に「志紀県主神社」(シキノアガタヌシジンジャ)があります。
創建は不明ですが延喜式内に記載があるので少なくとも927年(平安時代)には創健されていたことは間違いありません。
祭神は「神八井耳命」(カンヤイミミノミコト)です。『新撰姓氏録』(815年編纂)の中に「志紀県主、多朝臣同祖、神八井耳命の後なり」と記載がある事から、シキノオオアガタヌシが祖先であるカンヤイミミノミコトを祀った地域である可能性があります。
ちなみに、カンヤイミミノミコトは初代神武天皇の子で、2代綏靖天皇(スイゼイテンノウ)の兄です。その子孫がシキノオオアガタヌシであるならば、屋敷の屋根に堅木魚があった事も納得できます。
奈良時代初期の頃、柏原付近から道明寺付近にかけて肥沃な水田地帯が広がっていたとされています。大和に入った王族の末裔であるシキノオオアガタヌシは神武天皇の時代から先祖代々この土地を管理していたのではないでしょうか。
雄略天皇が会いにいった、ワカクサカベノミコトは、雄略天皇の祖父の16代仁徳天皇の娘です。仁徳天皇といえば日本最大の前方後円墳、大仙陵古墳に埋葬されている人物。ライバルを抹殺する事で大王の座に上り詰めた雄略天皇としては、権力を強化するために偉大な雄略天皇の血を引くワカクサベノミコトを皇后にして河内の勢力を味方につけたかった事が推測できます。
そこで手始めに河内の中でも大和に最も近いシキを治めるシキノオオアガタヌシに圧力をかけてワカクサカベノミコトとの間を取りもたせた。その際の河内の拠点がシキの宮だったのではないでしょうか。
つまり、稲荷山に埋葬されていたヲワケの臣は雄略天皇が、大和から河内に入る頃に天皇に仕えていた人物である事が考えられるのではないでしょうか!
ワカクサカベノミコトを皇后にできれば雄略天皇の権威を不動のものにできる。失敗すればワカクサカベノミコトを迎えた別の豪族との戦いが予想される。そのような緊張感のある時代に雄略天皇を支えた人物であれば、その功績を記して後世に伝えたいと考えるかもしれません。
まとめ
今回はさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣について考えてきました。伝説の人物だと思われていた人が実在した事とその年号を知る上で大変貴重な発見が故郷であったことを改めて誇りに思いました!!
さきたま古墳③へつづく