前回の記事の続きです。
『新撰姓氏録』によると常世氏は燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族赤染氏の一族とあるのです。
魏によって滅ぼされた公孫氏が日本に渡ってきた事はありえるのでしょうか?
遼東の公孫氏の滅亡
公孫淵は後漢が滅亡した後の楽浪郡、帯方郡を支配して237年に燕王を名乗った人物です。
翌紹漢2年(238年)、司馬懿自ら指揮を執る魏軍との戦いに敗れ公孫一族は滅亡したとされています。公孫淵の首は魏都洛陽まで届けられたとされていますが、生き残った末裔は魏から逃れるために交流のあった邪馬台国を頼り、朝鮮半島を経由して日本に亡命したのでしょうか。
三国志時代の日本
『地図でスッと頭に入る三国志』より
燕王公孫淵が魏に敗れ、魏によって楽浪郡、帯方郡が直接支配された翌年の239年には邪馬台国の卑弥呼が使いを送り魏から親魏倭王の称号を与えられています。公孫氏が滅びたことで魏と直接通じることができるようになったのでしょう。
魏と通じる邪馬台国が九州にあったとすると、魏の影響が少ない大阪や関東に落ち延びた可能性はあるかもしれません。上は各都道府県の50人のDNAを解析した東京大学の研究です。渡来人由来のDNA(Y染色体O系統)は四国、近畿、北陸に多く、関東地方では旧武蔵国が多い結果となっています。
日経サイエンス2024年2月号より
常世㬢姫を祀る赤染氏
全国に4社しかない常世岐姫を祀る神社のうち『延喜式神名帳』に記載があるのは、大阪府八尾市の常世岐姫神社(河内国大県群)があります。 常世岐姫神社の正式名称は明治時代以降のものであり、それまでは「八王子神社(はちおうじじんじゃ)」と称していたようです。
前回の記事で赤染氏が常世氏の姓を賜ったことを紹介しました。常世岐姫神社が鎮座する河内国大県郡は赤染部(あかそめべ)の本拠地で、赤染部とは茜染めの技術を持った集団であり、赤染氏が伴造としてこれらを管理していたと考えられています。時代は降って鎌倉時代にも当地の人々が幕府から「河内国藍御作手(あいみつくて)奉行」に任じられて染色技術を諸国で指導していたといいます。『吾妻鑑』より
赤染氏は、豊前国の式内社・香春神社の神職でもあった事がわかっています。香春神社は新羅系渡来氏族が創建した神社で(豊前国風土記に、「昔、新羅の国の神-香春の神-が自ら海を渡って来た」とあります)、その渡来氏族が香春の地から東進して宇佐地方に入り、在地氏族(宇佐氏)と一体化して創建したのが宇佐八幡宮ともいわれています。
宇佐八幡宮に関する記事はこちら↓
まとめ
・238年に魏によって燕を滅ぼされた公孫淵の末裔は魏から逃れるように朝鮮半島を経由して日本列島(九州北部)にやってきた。
・当時日本列島には魏と親交のある邪馬台国が勢力を持っていたため、邪馬台国の支配の及ばない河内や関東に移住した。
- 価格: 24750 円
- 楽天で詳細を見る
- 価格: 1320 円
- 楽天で詳細を見る