古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きです。

ざっくり松前藩成立の歴史

最近「ゴールデンカムイ」にハマっており北海道の歴史について調べてる中で出会った一冊の本をもとに松前藩が成立するまでの歴史を紹介します。

 

北海道といえば江戸時代に松前藩が置かれた事は有名です。

 

松前藩は東北の豪族が北海道へ移住して立てた藩ですので、松前藩を理解するには簡単に東北の歴史を振り返らなければなりません。

 

東北に律令体制が及ぶ

 

古代、東北地方は律令体制の支配を受けない自由な地域でした。すなわち中央政府に税金を納める必要がない、非支配地域でした。

坂上田村麻呂征夷大将軍となり蝦夷(えみし)達との戦いに勝利すると、律令体制が東北に及ぶようになります。

 

陸奥・出羽地方の蝦夷は、朝廷への従属と引き換えに特産物を朝貢する「俘囚(ふしゅう)」の身分に置かれます。 

 

時が経つと交易によって権力を拡大し安倍氏など地頭権力に成長していきます。

 

鎌倉時代に安東氏が蝦夷へ進出

鎌倉時代安倍氏の系譜をひく津軽の安東氏が蝦夷地(現在の北海道)を支配する「蝦夷管領(えぞかんれい)」となります。鎌倉時代蝦夷地は重罪人を島流しにする流刑地とされていたようです。

 

安東氏によって同族が松前の大館に配置され代官を行なっていました。

安東氏は政務を担う拠点を津軽の十三湊(とさみなと)に置いたため、十三湊は津軽蝦夷の産物が集まり、交易の場として大いに栄えました。

 

戦国時代に安藤氏が北海道へ

戦国時代、陸奥十三湊を本拠地とする海の豪族の息子としてら安藤政季(あんどうまさすえ)が誕生します。

1442年(嘉吉2年)南部に敗れ捕虜となり八戸に送られた安藤政季は、田名部を知行し家督を継ぎました。

 

(北海道渡島総合振興局より)

1454年(享徳3年)には武田信広を伴い蝦夷地に渡った安藤政季は、渡島半島(おしまはんとう)先端部に自らの親族を守護、副守護として「安藤氏ー守護ー館主」とする支配体制を置きました。

最も栄えたのは天然の良好である宇須岸(うすけし)(アイヌ語でウショロケシ=湾の端)(現在の函館湯の川温泉があるあたり)です。

 

新羅之記録』(江戸時代に編纂)によると15世紀の宇須岸は「年3回、若狭(現在の福井県)から商船が来て、問屋が軒を連ねている」と繁栄の様子が記されています。

 

室町時代には蝦夷島の昆布が若狭の小浜で加工され、若狭昆布として諸国に販売されました。

 

道南十二館の崩壊と蠣崎氏の台頭

 

安藤政季が本州に帰った一年後の1457(長禄元年)コシャマインの戦いが起こります。製鉄技術を持たない鉄の入手をアイヌは和人との交易に依存しており、和人の不当な態度がきっかけとなったと考えられています。

 

(Wikipediaより)

コシャマイン率いるアイヌ達は道南十二館を次々と攻め落とし、道南十二館のうち10を攻め落とし、残すは花沢と茂別のみとなりました。

 

迫り来るシャクシャイン達に対して花沢館の館主蠣崎氏に派遣された武田信広がこれを制圧しました。これをきっかけに武田信弘(のちの蠣崎信弘)が支配体制の実権を握っていきます。

 

 

蠣崎氏により松前藩が成立

蠣崎信弘の子孫で5代目の蠣崎慶廣が松前藩初代藩主となります。

 

 

蠣崎慶廣は和人とアイヌの抗争を防ぐために、和人地と蝦夷地を区画しました。これにより和人地には新たなアイヌの居住を認めず、蝦夷地への和人の往来を禁止しました。後に亀田と熊石に番所を置き、蝦夷地へ出入りする人間を検査しました。

 

1591(天正19年)南部九戸政実の乱が起きた際に蠣崎慶廣は豊臣秀吉に味方するため、アイヌを率いて加勢します。1593(文禄2年)には肥前名古屋城豊臣秀吉と謁見し朱印状を賜ります。

 

1604(慶長9年)松前藩主蠣崎慶廣は松前に改称するとともに徳川家康から黒印状を受けて、安東氏からの独立を果たしました。

(蝦夷国風図絵 函館市中央図書館所蔵)

黒印状によって松前藩にことわりなく蝦夷地への出入りや商いをする事が禁じられました。蝦夷地では米が取れないことから、松前藩は家臣に知行(俸禄)としてアイヌとの交易場所を与え、そこから得た収益を家臣の収入とする「商場知行制」をとりました。しだいに家臣達は商場の経営を商人に任せて運上金を徴収する「場所請負制」へ移行していきます。

 

日本海航路で栄えた福山(松前)、江差箱館は「松前三港(まつまえさんこう)」と呼ばれます。

 

次回は松前藩の館である「福山館」またの名を松前城について書いていきたいと思います!

 

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