明治時代初期、北海道には多くの集治監(しゅうちかん)が作られ、本州から多くの囚人達がインフラ整備の労働力として連れて来られました。
その一つ網走監獄は当時の面影を残したまま、博物館として整備されて、囚人達の過酷な環境を今に語り継ぐ施設となっています。
なぜ網走に監獄を設置したのか?
明治維新後近代国家への脱皮を目指した明治政府にとってアジアに進出する列強の動きは大きな脅威でした。特にロシア帝国の南下政策に対する危機感から北海道の防備を固める事が必要でした。
関口信一郎 北海道みなとまちの歴史 より
明治初期の北海道の人口は1万7千人。そのうち人口の60%が松前、江差、箱館に集中している他、陸路が整備されておらず海岸沿いに点在する集落へは海路で移動しなければならない状態でした。
国防上北海道開拓が急がれる中で政府は労働力として「囚人」に目をつけました。明治初期の日本には西南戦争や秩父事件など内戦、内乱が多発し、逮捕者が続出していたのです。
・佐賀の乱 1874年
・萩の乱 1876年
・西南戦争 1877年
増加する逮捕者の流刑地として選ばれたのが北海道でした。明治政府の内務大臣山縣有朋は囚人を使って北海道開拓を進めれば安価な労働力を確保でき、監獄費の削減になると主張する「苦役本文論」を採択しました。これによって北海道に多くの集治監(しゅうちかん)が建設されることとなったのです。
集治監のねらいは「網走」「旭川」「札幌」を繋ぐ中央道路を作る事でした。北方の防衛のため屯田兵が北海道を横断できるようにする事が可能になるためです。この命題を受け1881(明治14)年樺戸、空知、釧路に集治監が設立されました。
1890(明治23)年中央道路建設の起点として釧路集治監の囚人1200人が網走に移された事が、網走監獄の始まりとなります。
網走監獄を見学してみた!
北海道の道東日本海側に位置する網走市は人口3万人の都市です。
2月の網走の最高気温は−3℃、最低気温は−11℃まで下がります。網走川に架かる鏡橋を渡っていきます。
鏡橋は京都五条大橋を模して作られたそうです。五条大橋といえば牛若丸と弁慶が決闘した場所です。北海道に伝わる義経伝説とも関係があるのでしょうか。
門兵と記念撮影。網走監獄には蝋人形で当時の人の姿が再現されています。
網走監獄:ゴールデンカムイより
網走監獄マップ:Webサイトから
PDFをダウンロードできます。
舎房と中央見張所は独特の形をしています。ベルギーのルーヴァン監獄をモデルにしており、死角をなくし少ない人数で全ての獄舎を監視できる構造となっています。
舎房の長い廊下。
脱獄犯を発見しました。すごく寒そうです。
独房の中は外から見えるようになっているため通気性バツグン。寒そうです。
次回は資料館の展示をもとに網走監獄の歴史について書いていきたいと思います。
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