古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きです。

北海道旅:北海道開拓と網走監獄②

網走監獄博物館に関する記事の続きです。明治初期政府に反乱する人々が爆発的に増えたことで囚人収容に困った明治政府は、囚人を北海道に送り込み開拓の労働力にする事を決定します。その流れで作られたうちのひとつが網走監獄です。今回は網走以外の集治監も紹介していこうと思います。

 

集治監の設立

 

明治10年自由民権運動が台頭すると明治政府は彼らを国事犯として投獄しました。投獄者は年々増加していき1885(明治18)年には全国で8万9千人と過去最高の収容者数となる異常な事態となりました。(現在は3万人)

シベリア鉄道路線:Wikipediaより

当時のロシアはウラジオストクからシベリア鉄道の建設が始まるなど極東における南下政策に積極的であり、明治政府は危機感を募らせていました。  

 

1881(明治14年)過剰囚人対策として懲役刑12年以上の者は北海道に収容し、囚人を開拓の労働力として使用する事としたのです。

 

 

樺戸集治監と月形潔

 

北海道最初の集治監は現在の月形町に作られました。1880(明治13年)内務卿伊藤博文は月形潔を団長とする調査団を派遣します。

 

(青線は石狩川)

月形潔らは札幌近郊で豊かな土地が広がり、石狩川を利用できる水運の便を持つ樺戸郡のスベツブトを候補地として決めました。

豊かな土地とは言いますが、当時は樹木の生い茂る原生林であり開拓作業は大変過酷でした。原生林を切り倒し開墾された農地は開拓移民達に払い下げが行われました。

囚人によってつくられた樺戸と市来知(いちきしり)を結ぶ16キロの直線道路である峰延道路は現在でも地図から確認する事ができました。

 

福岡から北海道に籍を移した月形潔は樺戸集治監には官舎が無かったため囚人達と同じ場所で起居したと言われています。後にこの辺りは月形潔の功績を称えて「月形村」と名付けられました。月形町には2023年現在2800人が暮らしています。

 

ゴールデンカムイ©️野田サトル/集英社

樺戸集治監の剣術師範には当時小樽に住んでいた元新撰組永倉新八が依頼され明治15年から4年間看守らの剣術指導をしていました。

 

 

空知集治監の設立

 

 

1882(明治15)年現在の三笠市に空知集治監が作られました。三笠市は2023年現在人口7700人が暮らしています。

1881(明治14)年に開こうした幌内炭鉱の採掘量を増やす事を目的に3000人収容できる大規模な空知集治監が作られたのです。

 

 

釧路集治監の設立

1885(明治18)年現在の標茶町(しべちゃちょう)に釧路集治監が設置されました。標茶町は人口7000人の釧路市の隣町です。開設された当初の囚人は192人でしたが、1895(明治29)年には1371人と過去最高となりました。

釧路集治監が作られた目的は硫黄山(アトサヌプリ)での硫黄採掘でした。

黄山での採掘作業は過酷を極め、使役囚人の3分の1が疾病もしくは死亡したとされています。硫黄粉と亜硫酸ガスによる中毒や失明、栄養失調による感染症が蔓延したのです。

 

その過酷さから1887(明治20)年に硫黄採掘の労役が中止され、代わりに標茶ー厚岸間道路、標茶ー釧路間道路、硫黄山ー網走間道路、大津ー伏古間道路、網走ー上川間道路の建設が行われました。

 

 

網走監獄の設置

 

1890(明治23)年釧路集治監から1200人の囚人を網走に移送させ網走と旭川を繋ぐ中央道路工事の起点として網走囚徒外役所が作られました。

 

 

釧路分監帯広外役所の設置

 

北海道十勝地方は今家食料自給率1132%を誇る食料生産地ですが、開拓は遅れていました。1883(明治16)年与田勉三率いる「晩成社」が開拓民として十勝平野に入植しました。与田勉三はインテリ農民でありケプロンの報告書を読み、山羊、豚の飼育法からハム製造、りんご、ビート栽培と意欲的な農法を試みましたが、なかなかうまくいきませんでした。

乃南アサ チーム・オベリベリより

当時帯広は陸の孤島で陸路が整備されていなかったため与田勉三らは必要な物資を50km離れた大津から十勝川を通って水路で運搬しており、生産した物資を流通させることも難しい状態でした。

1892(明治25)年釧路分監が大津街道、音更山道を作るために設置されました。釧路分監帯広外役所の囚人1200人が動員されると大津港ー帯広ー新得を繋ぎ十勝を横断する道路が完成しました。

帯広から糠平町を繋ぐ音更山道も囚人によって作られた結果、遅れていた十勝地方も発展することができるようになりました。

 

 

1894(明治27)年になると囚人使役が国会で追及される社会問題となったこともあり、囚人使役が廃止されました。

 

北海道の開拓は囚人の力によって飛躍的に進みましたが、その裏側には過酷な労働環境で働くことを余儀なくされた先人の苦悩があったことを忘れることはできません。

 

 

 

 

明治の先進教育を受けたクリスチャンである女性が主人公です。与田勉三率いる晩成社が開拓農民とともに原野であった帯広に入植し、苦難に立ち向かう話。士族の苦悩や、アイヌとの関わりなどに思いを馳せる事ができました。

十勝帯広の銘菓。晩成社のトレードマークである晩の字をあしらったパッケージのバターサンド。上品な味がしてお土産に喜ばれます。六花亭には晩成社タオルもあるのでオススメです。