前回の記事では最後の戊辰戦争である箱館戦争が終焉するまでを見てきました。箱館戦争が終わると蝦夷地は新政府の管轄となり開拓が進められています。札幌時計台に行った記録とともに札幌の歴史を見ていきたいと思います。
前回の記事↓
1869( 明治2)年5月榎本武揚ら旧幕府軍は蝦夷共和国建国を夢見て明治政府軍と戦い、敗れ去りました。明治政府は旧幕府軍を倒した2ヶ月後の七月に直ちに「開拓使」を設置しました。
北海道開拓のシンボルとして札幌農学校(現在の北海道大学)の武道場が「札幌時計台」として保存されているので、行ってきました!
札幌駅と大通駅の間にありました!
中は資料館になっています。
開拓使の設置
1869(明治2)年7月8日北方開拓のための官庁として「開拓使」が設置されました。その名称から役職のように感じますが、〇〇省と同格の中央官庁の一角です。当時はロシアの南下政策が懸念されており、北海道開拓こそが近代国家の任務と考えられたのでした。
当時の北海道の行政の中心は、松前城がある松前や、箱館奉行所がある函館でしたが、北海道全体を管理する事を目指した政府は道央部の札幌に本府を設置することを決めました。開拓使札幌本庁が完成するまでは一時的に東京の芝増上寺の境内に開拓使仮庁舎が設置されました。
東京都港区にある増上寺は徳川家の菩提寺ですぐ近くに東京タワーがあります。
北海道の由来
明治政府は天皇の権威を中心とした国家を目指す上で、天皇が日本の統治者であった古代の制度である「律令制」を参考にしました。そのため明治時代に導入された官庁や職務の多くは古代律令制から命名されたりしています。
幕末まで「蝦夷地」と呼ばれていた北海道は「北海道」古代律令制を元に1869(明治2)年8月15日の太政官布告(だじょうかんふこく)で改称されました。
古代、日本の律令制において、日本は「五畿七道」に区画されていました。制定されたのは遡ること天武天皇の時代だと言われています。
(Wikipedia より)
太政官布告により北海道が新設されたことで五畿八道制となりました。
なお、日本における「道」の成立については大化改新以前より存在したとする説もあります。『記紀』の崇神天皇の時代に四道将軍を派遣した記載があるためです。
「太政官」や「開拓使」という名称もまた、古代律令制の下で使用された職名に由来しています。
古代律令制では政府の役職は「律令」に明記されている事が原則です。現実的な政治課題に対して、柔軟な対応を行う事を目的に「令外官(りょうげのかん)」が置かれるようになりました。
令外官は遣唐使、検非違使、押領使・追捕使置など〇〇使がつくのが特徴です。北海道開拓使もいわゆる令外官ということですね。
北海道開拓使本庁を箱館から札幌に
1869(明治2)年6月6日旧佐賀藩主鍋島直正が蝦夷開拓総督に命ぜられます。旧藩士島義勇(しまよしたけ)らを開拓御用掛に登用、7月13日には初代開拓長官に就任しましたが、蝦夷地へ赴任することなく辞職しました。
鍋島直正の後は公家の東久世通禧が後を引き継ぎました。1869(明治2)年9月に北海道に到着、1870(明治3)年東京の開拓使を廃止して函館の出張所を本庁としました。当時の人口、産業の中心であった箱館(函館)から、北海道の中央部に本庁を設ける計画になっていました。
札幌移転計画に尽力したのが佐賀藩士島義勇です。東久世通禧に同行した島義勇首席判官は、銭函(現在の小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌で市街の設計と庁舎の建設を始めました。
1870(明治3)年2月13日樺太開拓使が設置されると同時に開拓使を「北海道開拓使」と改称しました。1870(明治3)年4月、現在の北4条東1丁目に[開拓使仮庁舎]が竣工されていきます。
しかしながら、島義勇は長官と対立し、志半ばで解任されてしまいます。島義勇はその後佐賀の乱で亡くなってしまいますが、北海道では「北海道開拓の父」として尊敬を集めています。
島義勇の後任である岩村通俊判官の下で札幌の建設が続けられ、1871(明治4)年5月に開拓使庁が札幌に移りました。
札幌農学校の設立
1871年(明治4)年東久世通禧が辞任し跡を継いだのが黒田清隆です。黒田清隆が長官になるたのは1874(明治7)年でそれまでは次官のまま東京で開拓使の長を勤めていました。
黒田清隆は長年の鎖国下にあり日本人だけでは、本州と気候も異なり未開の地である北海道開拓は不可能と考えました。そこで、フロンティア開拓を進めるアメリカ合衆国からホーレス・ケプロン等顧問団を招聘して、そのアドバイスに基づき、道路、鉄道の開通、屯田兵制度による移住、官営工場の設立など多角的な開発政策を推進したのです。
1872(明治5)年4月増上寺の境内に「開拓使仮学校」が建設されます。1875年(明治8)年8月札幌学校に改称となり札幌へ移ります。
1876(明治9)年8月北海道開拓を推進する人材育成を目的として札幌学校は札幌農学校に改められま開校します。初代教頭は現職のマサチューセッツ農科大学学長のクラークでした。
クラークは「北海道開拓を推進するリーダーは知力、体力、人格を有するジェントルマンである事が必要である」と考えこれを教育方針としました。
1期生は佐藤昌介 、2期生は新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾、広井勇を輩出しました。
1899(明治32)年札幌農学校は現在の北海道大学の位置へ新校舎の建築を始めました。1903(明治36)年に移転しました。 演武場は札幌農学校のシンボルとして札幌市に買い取られ、市民の時計台して今も大切にされています。
札幌農学校ができた当時の札幌の人口は3000人だったといいます。現在の札幌市の人口は195.2万人と200万人に迫る勢いで、全国では神奈川、大阪、愛知に次いで全国4番目の都市となりました。
前人未到の開拓に挑んだ先人たちに感謝せずにはいられません。
次回は明治10年代、北海道開拓を急ピッチで進めるてめ明治政府は囚人を労働力として投入する事を決定していきます。