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呪術廻戦と日本史 乙骨という名字は実在する?名前の由来は徳川家康?

この記事では、『呪術廻戦』の乙骨憂太(おっこつ ゆうた)の名字「乙骨」のルーツを辿ると、なんと徳川家康にたどり着くという驚きの歴史があります。  今回は、乙骨憂太のキャラクター設定と、実在する「乙骨氏」の意外な歴史について深掘りします。

 

 

 『呪術廻戦』の乙骨憂太とは?

『呪術廻戦』より

乙骨憂太は『呪術廻戦』の前日譚である『東京都立呪術高等専門学校』(0巻)の主人公であり、本編でも重要な役割を担う特級呪術師です。

 公式ファンブックによると、作者の芥見下々先生は「乙骨」という名字を選んだ理由について、「なんかかっこいいから」とコメントしています。

第二巻より

確かに、一度聞いたら忘れないインパクトとかっこよさがありますよね。

 

また、名前の「憂(ゆう)」という漢字には、「物思いに沈む、心配する」という意味があります。作中の乙骨憂太の性格を反映していますね。

『北野天神縁起』より

乙骨憂太は日本三大怨霊の一人である菅原道真の子孫であり、最強の呪術師・五条悟とは遠縁にあたることが明かされています。

 

乙骨という名字は実在する

「乙骨」という珍しい名字ですが現在の日本にも実在するようです。  

乙骨姓の発祥は、現在の長野県富士見町乙事(おっこと)、かつての信濃国諏訪郡乙骨邑(おっこつむら)と言われています。  

もののけ姫』より

もののけ姫』に登場する「乙事主(おっことぬし)」という猪神の名前も、この地名が由来であることは有名です。

 

乙骨という名字を与えたのは徳川家康

実はこの「乙骨」という名字、戦国時代の終わりの頃に、徳川家康から直接与えられたという記録が残っています。

 

 江戸時代の武家である「乙骨氏(おつこつし)」の家祖は、もともと五味太郎左衛門安利という人物でした。

武田信玄 


彼は信濃国(長野県)の乙骨村の名主であり、最初は武田信玄に仕えていました。

 天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、太郎左衛門は徳川家康に仕えることになります。  その直後に起きた、徳川家康北条氏直が争った「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」において、徳川軍が乙骨村付近に陣を構えた際、土地勘のある太郎左衛門が偵察を行い、軍をサポートしたのです。  

 

 この功績から、天正19年(1591年)12月28日、太郎左衛門は徳川家康に謁見し、褒美として、武蔵国八王子大楽寺村(現:東京都八王子市)に5,000坪の土地と屋敷  「乙骨」という新しい姓  を貰い受けたと言います。

こうして、彼は「乙骨太郎左衛門」となり、その後、乙骨氏は幕臣として江戸幕府に仕えることになったのです。

 

『呪術廻戦』乙骨憂太の先祖が菅原道真である理由

『呪術廻戦』の中で、乙骨憂太は日本3大怨霊として恐れられた菅原道真の子孫である、だから特級クラスの実力を持っていると説明されていました。

 

実は実在する乙骨氏も菅原道真やそのルーツである古代の出雲属と関係がありそうです。

『呪術廻戦』より

乙骨憂太の先祖である菅原道真は、初代出雲国造(出雲の国を治める長官)の17代の子孫である野見宿禰(のみの すくね)です。

図に表すと上のようになり、日本神話から連綿と続く出雲の統治者の家系であるとわかります。 そして、実在する乙骨の由来となった乙骨村がある場所は、長野県の諏訪大社の近くです。


長野県の諏訪大社主祭神は健御名方(たけみなかた)であり、かつての出雲の統治者であった大国主の子でしたが、天照(あまてらす)が派遣した武甕槌(たけみかづち)に敗れて、諏訪に落ち延びたと『古事記』に記されています。

諏訪大社宮司は出雲の統治者の血統である諏訪氏が務めていることから、諏訪地方にはルーツを出雲とする人々が住んでいたことは確かです。 つまり、実在の乙骨の先祖をたどれば出雲系である可能性があります。(証拠はありませんが・・・)

 

 まとめ

・『呪術廻戦』の乙骨憂太の名字は実在する

・乙骨の始まりは武田信玄に仕え、のちに徳川家康からその名を与えられた武士

・実在の乙骨の先祖をたどれば出雲系である可能性があり、乙骨憂太の設定と類似

 

 

諏訪大社宮司諏訪氏とは?

【Netflix】イクサガミと日本史

この記事では、Netflix (ネットフリックス) で配信されている『イクサガミ』の時代背景と隠された裏設定について考察していきます。

 

 

イクサガミとは?

『イクサガミ』直木賞作家・今村翔吾さんの小説を原作にした時代劇風バトルロワイヤルです。

 

『イクサガミ』の物語は、西暦1878年明治11年)の日本を舞台に、元武士たちが命をかけて蠱毒(こどく)と呼ばれるデスゲームでの戦いを描いています。

 

デスゲーム”蠱毒(こどく)”への参加は、武勇に優れた者に金10万円(現代の価値で約46億円相当)を得る機会を与えるという告知によって募集されました。

京都市右京区に実在する天龍寺はイクサガミのロケ地

これに呼応し、自らの戦闘力に覚えのある約300人が深夜の京都天竜寺に集められます。  ゲームのルールは以下の通りです。 

  • ある方法で点数を集めながら、東海道を通って「江戸(東京)を目指す」
  •  各宿の通過には定められた点数が必要
  • 点数を稼ぐ唯一の方法は、参加者全員に1枚ずつ配られた木札(1枚につき一点)を、奪い合うこと
  • ルールを他者に漏らしたり、ゲームから離脱することは許されず、離脱が確定した場合は、常に監視している運営に抹殺されてしまう

 

イクサガミの 蠱毒(こどく)の元ネタ・由来は?

イクサガミのデスゲームの蠱毒(こどく)は聞きなれない言葉です。由来・元ネタは、どうやら、かつて日本に実在した呪術からきているようです。

もともとは、古代中国で用いられた呪術であり、様々な毒をもつムシを一つの壺に入れて共食いさせ、最後に勝ち残った最強の1匹が神として祀ることで、富や強力な毒を得られるとされるものです。

 

「この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが、一定期間のうちにその人は大抵死ぬ」とされています。

 

日本の歴史書では、蠱毒(こどく)が実際に行われており、平安時代に編纂された『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、以下のように記されています。

県犬養姉女が活躍した藤原仲麻呂の乱に関する記事

 

『イクサガミ』の主人公 嵯峨 愁二郎の元ネタ・実在するのか?

『イクサガミ』の主人公の嵯峨愁二郎(さが しゅうじろう)は、かつて「人斬り刻舟(ひときりこくしゅう)」として恐れられた、伝説の剣豪です。

 

「人斬り○○」という異名は、幕末(江戸時代の終わり)の動乱期に京都などで暗殺活動を行った、尊王攘夷派の志士を指す言葉です。

るろうに剣心』1巻より

 

「人斬り刻舟」こと、嵯峨愁二郎のモデルとなった、特定の歴史上の人物に関する、明確な情報は確認できませんでした。

 

イクサガミの時代設定は?

 『イクサガミ』の舞台である明治11年1878年)は、日本が江戸時代から明治へ変化した、日本史における大激動期に当たります。物語の約25年前の出来事が、この激動の時代の始まりとなりました。

江戸時代末期、ペリーが黒船4隻を率いて来航しました。ペリーは江戸幕府に対し、漂着民の保護や、蒸気船への石炭・水・食料の提供、そして貿易を要求します。  

 

当時の日本の法律では長崎以外への外船の来航は禁止されていましたが、ペリーの黒船艦隊は60門以上の最新式大砲を搭載し、江戸湾奥深くまで侵入してきます。

 

この軍事的な圧力とも見えるペリーの行動に、植民地化の危機感を抱いた幕府の老中・阿部正弘は、全国の大名や旗本の意見を集めます。この行動は、幕府が「答えを持っていない・頼りない」とらえるものもおり、幕府の権威は失墜に繋がっていきました。

 

全国の大名たちの意見は「開国派」と「攘夷派」(外国の敵を打ち払う思想)に二分されました。  さらに、約200年間お飾りの状態だった当時の天皇が「開国は許さん」と強い攘夷思想を表明しました。これにより、将軍が収める江戸幕府と、天皇を中心とした朝廷の間に対立構造が生まれました。

ペリーの圧力に屈した幕府は、日米和親条約1854年を結び、攘夷派の激怒を買いました。  その後、ハリスが来日し、さらに本格的な不平等条約日米修好通商条約)を迫ります。  この時期に大老に就任した井伊直弼(いい なおすけ)は、イギリスやフランス連合が当時清国を攻撃中であった国際情勢を見て、このままでは日本も植民地化されると危惧します。

 

そこで、井伊は天皇の許可を得ずに日米修好通商条約(1856年)を締結しました。これには、関税自主権治外法権領事裁判権)を認める不平等なものではありましたが、 、先にアメリカと条約を結ぶことで、国際的な原則である「最恵国待遇」を適用させ、より悪い条約の締結を防ぐための防波堤とするという狙いがありました。しかし、天皇の許可得なかったことから、尊皇派・攘夷派を刺激し、幕府を討伐する運動にさらなる大義名分を与えてしまうのです・・・

桜田門外の変 井伊直弼の暗殺

 

1867年徳川慶喜(よしのぶ)は武力で倒される前に自ら政権を天皇に返上する「大政奉還」を行い、約260年続いた江戸幕府が幕を閉じます。

しかし、薩摩藩長州藩を中心とする討幕派は、徳川の力を完全に排除するため、天皇を後ろ盾にした政治的クーデター「王政復古の大号令」を宣言しました。これにより、幕府の完全廃止と徳川家の財産没収が求められ、天皇を中心とした新政府の樹立が公表されました。  この一方的な宣言に激怒した旧幕府軍と新政府軍が京都で激突し、「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」が始まります。

 

 『イクサガミ』の主人公の嵯峨愁二郎(さが しゅうじろう)は、この戊辰戦争において、新政府軍側で活躍したという設定です。しかし、勝利の後に味方であるはずの新政府軍の裏切りに遭い、トラウマから刀を抜けなくなってしまいます。

この新政府による裏切りは、相楽総三赤報隊がモデルになっているのかもしれませんね。

1869年五稜郭の戦いで戊辰戦争が終わり、1876年の廃刀令発布や、1877年の西南戦争などを経て、武士の時代は決定的に終わりを迎えます。

 

『イクサガミ』の物語の舞台である1878年明治11年)は、この西南戦争終結のわずか1年後にあたるのです。武士の時代の終焉が確定したばかりの無常な時期、さらにコレラの大流行も重なり、行き場と誇りを失った元武士たちの怒りや喪失感が最高潮に達していました。  嵯峨愁二郎(さが しゅうじろう)をはじめとする元武士たちは、命をかけて蠱毒(こどく)に挑むことで、滅びゆく武士としての意地や存在意義を示そうとしたのではないでしょうか。

 

 

まとめ

・イクサガミの蠱毒(こどく)の元ネタは古代中国・日本で行われた呪術

・イクサガミの主人公の嵯峨愁二郎は実在しない

・イクサガミの時代背景は戊辰戦争廃刀令西南戦争を経て武士の時代の終焉である

 

 

兵庫旅:難波八幡神社を参拝

じんじゃ  この記事は、尼崎市に立ち寄った際に「難波」という地名があったので立ち寄った難波八幡神社の訪問記録です。

 

 

難波八幡神社を参拝

難波八幡神社(なにわやはたじんじゃ)

 主祭神 八幡大神(はちまんのおおかみ)

例祭日 10月15日

鎮座地 東難波町3丁目6-15  

 

本殿は1688年(5代将軍徳川綱吉の時代)に作られたそうです。

本殿の説明

境内の三社殿には菅原道真、ヒノカグツチの神、スサノオが祀られていました。

尼崎には、菅原道真が九州の大宰府に向かう途中、尼崎の海辺の神社に立ち並ぶ老松や砂浜の美しさに目を奪われ、船を止めたという伝説が残っています。

 

菅原道真といえば梅の花の歌で有名ですが、この辺りには昔から梅の花で有名だったそうです。

 

近くの難波熊野神社では毎年「うめまつり」が開催されています。

 

難波八幡神社の歴史


当神社の史は古く、その創始は遠く4世紀に遡ります。第16代仁徳天皇が度々この難波の地に来られ、その仮宮、難波祝津宮(なにわはふりつのみや)とされるのが当神社の始まりであります。当時は今の扶桑町に祀られておりましたが、約500年前戦火により全村が焼け、今の場所に建立し直されたと伝えられています。また、今のご本殿は貞享5年6月(1688年)の創建で一間社流造、柿葺で優美な姿をとどめており、尼崎市文化財に指定されております。  

社伝によれば、祭神の八幡大神仁徳天皇の父の応神天皇のこと。難波祝津宮(なにわはふりつのみや)の跡地と伝えられているそうです。

 

難波祝津宮(なにわはふりつのみや)とは、欽明天皇が即位して1年後に訪れたと『日本書紀』に記されている宮のことです。

 

九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮、大伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇問諸臣曰「幾許軍卒、伐得新羅。」物部大連尾輿等奏曰「少許軍卒、不可易征。曩者、男大迹天皇六年、百濟遣使表請任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁四縣、大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是、新羅怨曠積年、不可輕爾而伐。『日本書紀

 

現代語訳

「九月乙亥(かのとゐ)の朔(ついたち)の己卯(つちのとう)の日、天皇は難波(なにわ)の祝津宮(いはひつのみや)に行幸(ぎょうこう)された。大伴大連(おおとものおおむらじ)金村(かなむら)・許勢臣(こせのおみ)稲持(いなもち)・物部大連(もののべのおおむらじ)尾輿(おこし)らが従った。  天皇は群臣たちに尋ねられた。『どれくらいの兵力で新羅(しらぎ)を討伐できるだろうか』  物部大連尾輿らは奏上(そうじょう)して言った。『わずかな兵力では、簡単に攻め取ることはできません。以前、男大迹天皇(おおあとすめらみこと。継体天皇のこと)の六年に、百済(くだら)が使者を派遣して、任那(みまな)の上哆唎(かみたり)・下哆唎(しもたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県を任せてもらうよう表(ひょう。願書)で請い願いました。その際、大伴大連金村がすぐにその表請(ひょうせい)に従い、要求された土地を与えてしまいました。このため、新羅は長年にわたり怨みと恨みを募らせており、安易に討伐することはできません』」

 

大伴金村百済任那4県を割譲したという過去の記事をなぞりながら新羅が当時の大和朝廷を恨んでいることを紹介しています。

 

即位したばかりの欽明天皇は、なぜ新羅を討伐したいと発言したのか。が疑問です。

 

欽明天皇が即位して13年後に、百済聖明王から百済から仏教の経典や仏像を送られており、欽明天皇の政権と百済とは友好関係があったことがわかります。だから百済と対立していた新羅と敵対していたのでしょうか。

 

 

難波(なにわ)の由来

難波といえば、大阪の繁華街ミナミこと難波(なんば)を思い浮かべます。

 

 尼崎市の難波は 「 なにわ」 と読みます。 史料上では少なくとも1304年には確認されている地名です。

尼崎市ホームページより

難波はかつて武庫川の支流にあたる庄下( しょうげ) 川と蓬( よも) 川の河口付近に位置し洲が突き出 た形でした。 ゆえに潮の満ち引きにより流れが速く なり、 これを当時の人びとは「 波速( なみはや) 」 と呼 んでいました。 これが転じて「 浪速(なにわ)」 となり、 「 難波」 という漢字が当てはめられ地名になったと いうことです。

 

また難破船の難破という漢字が変じたという説もあります。 ちなみに武庫の由来は、 難波都から見て「 向こう」 にあったという説があります。 地名の由来は歴史と密 接に紐づいていることも多く 、 遡ると新たな発見があるかもしれません。

( 参考: 『 兵庫「 地理・ 地名・ 地図」 の謎』 実業之日本社/編 実業之日本社)  

 

まとめ

・難波の由来は河口の流れが潮の満ち引きにより早くなったことから、なみはや→なにわとなった

・難波八幡神社仁徳天皇が訪れたことから、父の応神天皇を祀っている

・難波八幡神社は『日本書紀』に登場する欽明天皇難波祝津宮(なにわはふりつのみや)の跡地である可能性がある

安倍晋三氏のルーツは古代豪族?長髄彦?

安倍晋三元総理大臣の系譜を遡ると、幕末~近代日本の変革期である長州藩山口県)の偉人に繋がるだけでなく、平安時代の東北の武士、そしてさらには日本の古代史に登場する豪族にまで行き着きます。この記事では、安倍元総理のルーツと古代豪族との関係について考察します。

 

 

安倍晋三元総理のルーツは神武天皇の宿敵、長髄彦(ながすねひこ)

安倍元総理のルーツを語る上で、古代大和の有力者であった長髄彦(ながすねひこ)の存在は避けて通れません。

長髄彦安彦良和『神武』3巻より

長髄彦は、『古事記』『日本書紀』に登場し、初代、神武天皇(じんむてんのう)が日向(宮崎県)から大和(奈良県)へ東征した際に「ラスボスとして君臨した」人物です。

 

記紀』では、長髄彦は、饒速日命(にぎはやひのみこと)とともに、神武天皇よりも前からこの大和の地を治めていた人物とされています。

 

安倍元総理は、生前、自らが長髄彦の末裔であると公言していました。

 

長髄彦安倍晋三元総理の関係

長髄彦との戦いで命を落とした神武天皇の兄、五瀬命安彦良和『神武』3巻より

神武天皇の軍勢と長髄彦軍は激突し、激しい戦いの末、神武天皇が勝利します。

饒速日命(にぎはやひのみこと)は、神武天皇が同じ天孫族であると知り和解したのに対して、長髄彦は徹底抗戦を主張したため、饒速日命(にぎはやひのみこと)によって切られたと『記紀』は語ります。

しかし、各地に伝わる古伝では長髄彦は実は生きていたとされているのです。

 

長髄彦、あるいはその兄である安日彦(あびひこ)が、神武東征後に東北に逃げ定着した。この安日彦が転じて「安倍」となり、後の奥州安倍氏の起源(祖)となった。というものです。

 

この古伝に従うのならば、安倍元総理は、平安時代の奥州安倍氏の子孫であり、その祖先は長髄彦系であるということになります。

 

この古伝と同様の記録が文書にも残っています。鎌倉~室町時代に成立した『曽我物語』には蝦夷の祖は流罪にされた鬼王安日である。と記載されています。また、東北の豪族である安部氏・安東氏の流れを組む秋田氏の系図では安日彦を祖としています。

 

奈良の地で結びつく因果

長髄彦が本拠地であったと伝わるのは、奈良盆地内の現在の白庭台周辺です。

 

安倍元総理が事件に遭った現場(大和西大寺駅)は、この長髄彦が支配していた地域から2駅ほどの距離にあります。近隣の富雄という地名も『古事記』の登美能那賀須泥毘古(とびのながすねひこ)に由来しているといわれています。

偶然だとしても、長髄彦との因果を感じさせる出来事ですね。

 

前九年の役安倍氏

古代の長髄彦・安日彦の系統を継ぐと伝わる安倍氏は、平安時代に東北の有力豪族として歴史に登場します。

安倍氏の歴史は、平安時代源頼義(みなもとの よりよし)に討伐された奥州の有力者、安倍貞任(あべの さだとう)と弟の宗任(むねとう)兄弟にまで遡ります。この戦いは前九年の役と呼ばれます。

 

兄の貞任は殺害されましたが、弟の宗任は助命され、都に連行された後、四国の伊予国愛媛県)に流罪となり、さらに九州の筑前大島(福岡県)に再配流されました。

壇ノ浦の戦い

宗任は配流先でも徐々に勢力をつけ、その5代後の安倍貴俊は、源平合戦壇ノ浦の戦いで平家の水軍として戦っています。

平家が破れたため、安倍氏日本海に面した長門の国(現在の山口県長門市)の湯屋流罪となり、以降、この地に永住したと伝えられています。

 

この結果、長門国長州藩)の在地勢力として続いた安倍家は、戦国時代以降、毛利家の支配下の領民となりました。安倍晋三元総理は、この宗任の44代目の裔にあたるのです。

 

近代の政治家としてのルーツ:長州藩の志士の精神継承

安倍晋三元総理は、本籍地を長門市に持ち、父方(安倍家)と母方(岸家・佐藤家)の両方で長州藩にルーツを持ちます。

 

父方:長州の志士の魂「今高杉」

祖父の安倍 寛(あべ かん)は、故郷の村長を経て1937年に国会議員となりました。

 

寛は、日中戦争を遂行する近衛文麿首相の演説中に「反対」と叫んで壇上に向かうという行動を見せ、周囲の議員たちから幕末の志士高杉晋作になぞらえて「今高杉」と呼ばれました。

 

寛自身も高杉晋作を尊敬しており、息子の慎太郎氏に「晋」の字を当てるほどでした。この精神は孫の晋三氏へと受け継がれていきます。

母方:吉田松陰の師と繋がる家系

母方の曽祖父にあたる佐藤 信宏(さとう のぶひろ)も、代々毛利家に仕えていた長州藩士です。

 

信宏は藩校の明倫館で学んだ兵学者であり、後に松下村塾を開く吉田松陰も、信宏に兵法を習いに通うほどでした。

 

信宏は、伊藤博文井上馨といった、後に明治新政府の要人となる長州出身の志士たちとも交流を持ちました。

 

明治維新後、信宏は島根県令(現在の県知事相当)を務めています。

 

祖父の岸信介は、この曽祖父・信宏に大きな影響を受けて育ち、信宏が「信」の字を与えて「信介」と名付けたほどでした。

 

まとめ

安倍晋三元総理のルーツは、古代において神武天皇に抵抗した大和の豪族である長髄彦である可能性がある

・中世においては源氏と戦い続けた東北の雄、安倍宗任に繋がっている

 

ワンピースと世界史:ニカの元ネタは大日如来とシヴァ神?

『ワンピース』に登場する太陽の神ニカ。能力や、かつてニカが関わったとされる巨大な王国のモデル・元ネタは「古代インド思想」であると考察します。

 

 

 ワンピースの太陽の神ニカとは?

 

『ワンピース』1018話より

「ニカ」とは、『ワンピース』の主人公モンキー・D・ルフィが食べた悪魔の実「ヒトヒトの実 幻獣種 モデル:ニカ」の真の姿であり、「解放の戦士」として語り継がれてきた伝説的な存在です。  

『ワンピース』1044話より

ゴムゴムの実の覚醒とされるニカの能力は、ゴムゴムの能力そのものが強化され、周囲のモノもゴムように伸縮させることができます。

 

『ワンピース』1045話より

それに加えて、自分の想像したことを現実に変えることができ、「ゴムゴムの巨人(ギガント)」と呼ばれる必殺技では、龍フォルムのカイドウよりも巨大なサイズに変身しています。

ニカは太陽の神として崇められ、天竜人によって奴隷とされている人々を解放し、笑いと自由をもたらす存在とされています。  

 

ワンピースに登場する古代インド思想の痕跡

『ワンピース』より

『ワンピース』のかつて、世界政府と対立していた「巨大な王国」には、古代インド思想をモデルにしているものが多数見受けられます。 

『ワンピース』22巻より

巨大な王国の古代文字で記された、「ポーネグリ」は、古代インド(紀元前3世紀マウリヤ朝アショーカ王の時代)で用いられた「ブラフミー文字」に似ています。

『ワンピース』より

空島に登場した古代都市「シャンドラ」の名前は、インドの月の神「チャンドラ」が由来となっています。

空島に登場する4人の神官の名前は「修羅」「悟り」「解脱」「オーム」と仏教用語が盛りだくさんでした。

ビビの故郷であるアラバスタ王国は、エジプトがモデルなのですが、宮殿のモデルはインドの世界遺産「タージ・マハル」です。

『ワンピース』より

「ゾウ」の上にある「モコモ公国」は、世界を像が支えているという、インドの世界観そのものですし、「ズニーシャ」という名前はインド神話の神「ガネーシャ」が由来でしょう。

ニカの元ネタは仏教の大日如来か?

ニカの元ネタ・由来もインドで誕生した宗教である「仏教」における最高神(仏)がモデルとなっている可能性があります。注目してほしいのは、エルバフで登場する伝説の戦士ニカがもつ盾の模様です。

模様が太陽、もしくは仏教(密教)における曼荼羅(まんだら)に見えます。仏教の始まりは、はるか昔(紀元前)の「インド」つまり、古代インドの思想が色濃く反映されている事は後にふれていきます。

 

東大寺毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)

ニカのモデルとなった神は大日如来(だいにちにょらい)(マハーヴァイローチャナ)であると考えられます。大日如来(だいにちにょらい)は、仏教(密教)において最高の仏であり、宇宙の真理や宇宙そのものとされる宇宙の最高神です。 有名な東大寺の大仏(奈良県大日如来と同一ですね。

「四国おへんろ.net」より引用

大日如来(だいにちにょらい)は、「偉大なる太陽」を意味し、仏教(特に密教)の世界観を表した「曼荼羅(まんだら)」では、中心に描かれます。

 

曼荼羅(まんだら)は宇宙を意味しており、その中心に位置する大日如来(だいにちにょらい)(マハーヴァイローチャナ)は太陽の意味があるのです。

『ワンピース』1018話より

大日如来(だいにちにょらい)(マハーヴァイローチャナ)の背後には満月が描かれることがあります。『ワンピース』のニカの初登場シーンには、背後に満月が描かれていましたね。

仏教(特に密教)において、大日如来(だいにちにょらい)(マハーヴァイローチャナ)の化身(人の姿を借りて人間界に転生した姿)を明王(みょうおう)と呼びます。

『ワンピース』1014話より

ワノ国でギア4のルフィの姿を見たヒョウ五郎がルフィを「明王(みょうおう)」と呼んでいたのは、ルフィが太陽の神の化身であることを意味する発言だったのではないでしょうか。

大日如来が人に宿り化身として現れたのが明王であり、太陽の神ニカが人に宿り化身として現れたのがジョイボーイであり、ルフィであるとわかってきました。

 

ニカの由来・元ネタはヒンドゥー教シヴァ神

ニカの由来・元ネタとして、ヒンドゥー教シヴァ神である可能性もあります。

シヴァ神は、ヒンドゥー教の三大最高神の一人で、宇宙の「破壊」と「創造」を司る神です。シヴァ神は、踊りによって、宇宙を破壊し、新たな宇宙創造するといわれています。

『ワンピース』より


『ワンピース』のニカも「踊る神」であり、古い世界を破壊し新しい世界を創造するという意味が込められているのかもしません。

踊る神であるシヴァの手には太鼓が握られています。『ワンピース』に登場する解放のドラムのモデルでしょうか。

なお、ここまで見てきた仏教(密教)はヒンドゥー教の影響を強く受けて発展した思想です。仏教(密教)における妙王(みょうおう)は、インド神話シヴァ神が起源であるとされています。大日如来(太陽の神)=妙王(大日如来の化身)=シヴァ神(破壊と踊りの神)なのです。

 

まとめ

・古代の王国にまつわるもののはインドとの共通点が多い

・ニカの盾に描かれた曼荼羅、太陽の神という共通点、背後の満月、明王と呼ばれることから、ニカのモデルは仏教の最高神(仏)、大日如来である可能性がある

・ニカが破壊と踊りの神であることから、ニカのモデルはヒンドゥー教シヴァ神である可能性がある

 

 

ワンピースと日本史: ロジャーの技 火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)由来は日本神話の神か?

 

この記事では『ワンピース』に登場するロジャーの技「火之迦具土慧士ひのかぐつちのえいす)」の由来と元ネタについて紹介します。

 

 

※『ワンピース』第1165話のネタバレを含みます※

 

ワンピースの火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)とは?

『ワンピース』1165話より

火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)はワンピースの1165話で初めて登場した、ロジャーの最強必殺技です。

『ワンピース』より

火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)は「ゴッドバレー」において海軍中将ガープとロジャー海賊団船長のロジャーがロックス海賊団船長のロックスを倒すために共闘する中で登場した技です。

 

通常の覇気をまとった攻撃だけでは、ロックスを倒せないと判断したロジャーとガープはお互いの持つ全ての覇気を一斉にぶつける事を思いつきます。

『ワンピース』1165話より 

ロジャーは剣をグルグル回転させ勢いをつけてから一撃を放ちます。この技名が「火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)」です。

 

火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)の元ネタ・由来は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)か?

.『ワンピース』に登場するロジャーの技である「火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)」の由来・元ネタは、日本神話に登場する火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)であると考えられます。

 

火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の名前の意味については諸説ありますが、 「カグツチ」の「カグ」は「輝く」または「芳(かぐわ)しい」、「ツ」は神聖なものを表し、「チ」は超自然的なものを表す古語とされ、「日の輝ける神聖なる神」を意味するとされています。

 

火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の誕生神話については『古事記』に以下のように記されています。

火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)は、国生み(日本列島の創生)・神生み(原初の神の誕生)を終えたイザナギイザナミの間に最後に生まれた子です。

古事記石ノ森章太郎より

火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)は生まれながらにして、火をまとっていたため、母であるイザナミは出産と同時に大火傷を負ってこの世を去ってしまします。

     『古事記石ノ森章太郎より

妻であるイザナミを亡くしたイザナギは怒り狂い、自らの子であるカグツチを十拳剣(とつかのつるぎ)で切り殺します。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の死体からは、火の神、雷の神、山神、剣の神など、さまざまな神々が誕生したとされています。

      『古事記石ノ森章太郎より

この後、イザナギイザナミを連れ戻すために黄泉の国を訪問する伝説へと続きます。

 

 火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)信仰

火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)は 「火の神」であることから、火伏せ(ひぶせ)の神として全国の神社で祀られています。

Wikipediaより

特に有名なのは、静岡県秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)です。

Wikipediaより

江戸時代に江戸で火事が多発した際、秋葉神社から火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が勧請され、現在の秋葉原の地名の由来ともなった秋葉神社(東京・台東区)が創建されました。

 

神避(かむさり)と火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)の関係

過去の記事で、ロジャーからシャンクスに受け継がれた技である「神避(かむさり)」の由来について考察しました。

古事記』においていざなみがこの世を去ったことを、神がこの世を去(避)る=神避(かむさり)と呼んだことが由来となっています。

 

いざなみを神避(かむさり)させた神こそが、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)という日本神話をヒントにして、神避の上位の技として「火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)」と名付けたのではないでしょうか。

 

まとめ

・ロジャーの「火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)」の由来、元ネタは日本神話に登場する火の神「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」である

・ロジャーの「神避(かむさり)」は日本神話においてイザナミがこの世を去ったことがモデルとなっており、その上位技として「火之迦具土慧士(ひのかぐつちのえいす)」と名付けた可能性がある

 

 

 

おまけ

『ナルト』にもサスケの瞳術に「加具土命(カグツチ)」がありますが、「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」が元になっています。

NARUTO-ナルト-』巻ノ五十より

『モジュロ』に登場する「ホノヤギ」は、「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」の別名「火之夜芸速男神ほのやぎはやをのかみ)」から来ています。

『呪術廻戦≡(モジュロ)』より

 

愛媛旅①越智氏とは?

越智氏(おちし)という名前を聞いたことがあるでしょうか?愛媛県伊予国を起源とする、古代豪族です。この記事では、古代から瀬戸内海の支配者として君臨した越智氏と愛媛との深い関係、そして越智氏の子孫たちについて解説します。

 

 


越智氏とは? 物部氏の末裔か?

越智氏は、そのルーツを古代の豪族である物部氏(もののべし)の系譜に連ねる氏族です。

古代からの起源と系譜

越智氏の始祖とされるのは越智命(おちのみこと、乎知命/小千命)です。伝承では、この越智命は饒速日命(にぎはやひのみこと)の10代孫にあたるとされています。この『先代旧事本紀』の説にしたがえば、越智氏は物部氏と同系統ということになります。

 

饒速日命(にぎはやひのみこと)と物部氏に関する記事は↓

 

先代旧事本紀』だけでなく、『新撰姓氏録』でも、越智直(おちのあたい)は饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔として、神別(しんべつ)に分類されています。

 

越智氏が歴史の表舞台に登場する場所こそ、現在の愛媛県伊予国)です。

 

越智氏と大山祇神社

伊予国一宮である大山祇(おおやまつみ)神社愛媛県今治市)の宮司を務める越智家は、物部氏の祖先を持つとされています。

 

越智氏は、神武東征(じんむとうせい)の際に、瀬戸内海の治安を司っており、愛媛と岡山の間の瀬戸内海にある島々のうちのひとつ、「大三島」に祖先の大山祇神を祀ったという伝承が残っています。

 

越智氏の始祖とされる越智命(おちのみこと)は、第15代応神天皇の時代に、伊予国越智郡(おちのこおり)の国造(地方官)に任命されました。これにより、越智命が伊予国における越智氏の礎を築いたとされています。

 

大山祇神と三島水軍

 

日本書紀』景行紀には瀬戸内海の伊予、讃岐、安芸、播磨、周防の五国に水軍をおき、その中心だった伊予国三島大明神を崇敬したとあります。

 

平安時代の頃には、伊予の越智氏は武士化しており、10世紀に発生した藤原純友の乱の際には、伊予水軍(三島水軍)を率いて反乱鎮圧にあたるなど、早くから水上での活動が確認されています

 

源平合戦や蒙古襲来でも大山祇神を祀る河野氏(越智氏の子孫)の三島水軍が活躍したことは有名です。

 

 

越智氏と河野氏

越智氏の系統は中世以降、多くの有力な氏族や武士団へと枝分かれしていきました。その中に水軍として名を馳せた河野氏がいます。

 

中世の瀬戸内海で最も有名であった河野氏(こうのし)は、伊予国の古代の有力豪族である越智氏から派生した一族です。

 

河野氏誕生のきっかけは、越智氏の末裔である越智玉興(たまおき)・越智玉純(たまずみ)の兄弟が飲料水に困窮した際、地中に剣を突き刺すと水が湧き出たという説話にあります。

 

この水が越智氏の領地である高縄山から流れてきた水脈だと確認されたことから、河(水)の里より「河野」という氏(うじ)を名乗るようになったといいます。

 

弟の越智玉純が家督を継承し、河野氏の事実上の祖となりました。

 

河野氏の子孫である河野通有(みちあり)は、鎌倉時代元寇文永の役弘安の役)で活躍し、小舟で敵船に野火をかけて焼き払うなどの大きな手柄を立て、河野水軍の地位を確立しました。

 

歴史で活躍する越智氏の子孫

越智氏の子孫は、戦国時代には瀬戸内海を支配した村上水軍へと繋がっていきます。

 

平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵国の武士団である児玉党も、越智氏の末裔とされています。

 

児玉氏は安芸国にも分かれ、戦国時代には毛利元就の家臣として水軍を率いました

 

明治時代に日露戦争で活躍し華族となった児玉源太郎も児玉氏の子孫です。

 

その他にも、楠木正成正岡子規伊藤博文も越智氏の子孫とする説があります。

 

まとめ

・越智氏は、大山祇神を祖先とする物部氏の一派である

伊予国愛媛県)を本拠地とし、瀬戸内海の海上治安を古代から掌握してきた氏族であり、三島水軍や村上水軍に繋がる

伊藤博文をはじめ近代の偉人たちにも越智氏の末裔がいる