越智氏(おちし)という名前を聞いたことがあるでしょうか?愛媛県、伊予国を起源とする、古代豪族です。この記事では、古代から瀬戸内海の支配者として君臨した越智氏と愛媛との深い関係、そして越智氏の子孫たちについて解説します。
越智氏とは? 物部氏の末裔か?
越智氏は、そのルーツを古代の豪族である物部氏(もののべし)の系譜に連ねる氏族です。
古代からの起源と系譜
越智氏の始祖とされるのは越智命(おちのみこと、乎知命/小千命)です。伝承では、この越智命は饒速日命(にぎはやひのみこと)の10代孫にあたるとされています。この『先代旧事本紀』の説にしたがえば、越智氏は物部氏と同系統ということになります。
『先代旧事本紀』だけでなく、『新撰姓氏録』でも、越智直(おちのあたい)は饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔として、神別(しんべつ)に分類されています。
越智氏が歴史の表舞台に登場する場所こそ、現在の愛媛県(伊予国)です。
越智氏と大山祇神社
伊予国一宮である大山祇(おおやまつみ)神社(愛媛県今治市)の宮司を務める越智家は、物部氏の祖先を持つとされています。
越智氏は、神武東征(じんむとうせい)の際に、瀬戸内海の治安を司っており、愛媛と岡山の間の瀬戸内海にある島々のうちのひとつ、「大三島」に祖先の大山祇神を祀ったという伝承が残っています。
越智氏の始祖とされる越智命(おちのみこと)は、第15代応神天皇の時代に、伊予国の越智郡(おちのこおり)の国造(地方官)に任命されました。これにより、越智命が伊予国における越智氏の礎を築いたとされています。
大山祇神と三島水軍
『日本書紀』景行紀には瀬戸内海の伊予、讃岐、安芸、播磨、周防の五国に水軍をおき、その中心だった伊予国が三島大明神を崇敬したとあります。
平安時代の頃には、伊予の越智氏は武士化しており、10世紀に発生した藤原純友の乱の際には、伊予水軍(三島水軍)を率いて反乱鎮圧にあたるなど、早くから水上での活動が確認されています
源平合戦や蒙古襲来でも大山祇神を祀る河野氏(越智氏の子孫)の三島水軍が活躍したことは有名です。
越智氏と河野氏
越智氏の系統は中世以降、多くの有力な氏族や武士団へと枝分かれしていきました。その中に水軍として名を馳せた河野氏がいます。
中世の瀬戸内海で最も有名であった河野氏(こうのし)は、伊予国の古代の有力豪族である越智氏から派生した一族です。
河野氏誕生のきっかけは、越智氏の末裔である越智玉興(たまおき)・越智玉純(たまずみ)の兄弟が飲料水に困窮した際、地中に剣を突き刺すと水が湧き出たという説話にあります。
この水が越智氏の領地である高縄山から流れてきた水脈だと確認されたことから、河(水)の里より「河野」という氏(うじ)を名乗るようになったといいます。
弟の越智玉純が家督を継承し、河野氏の事実上の祖となりました。
河野氏の子孫である河野通有(みちあり)は、鎌倉時代の元寇(文永の役・弘安の役)で活躍し、小舟で敵船に野火をかけて焼き払うなどの大きな手柄を立て、河野水軍の地位を確立しました。
歴史で活躍する越智氏の子孫
越智氏の子孫は、戦国時代には瀬戸内海を支配した村上水軍へと繋がっていきます。
平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵国の武士団である児玉党も、越智氏の末裔とされています。
児玉氏は安芸国にも分かれ、戦国時代には毛利元就の家臣として水軍を率いました。
明治時代に日露戦争で活躍し華族となった児玉源太郎も児玉氏の子孫です。
その他にも、楠木正成、正岡子規、伊藤博文も越智氏の子孫とする説があります。
まとめ
・伊予国(愛媛県)を本拠地とし、瀬戸内海の海上治安を古代から掌握してきた氏族であり、三島水軍や村上水軍に繋がる
・伊藤博文をはじめ近代の偉人たちにも越智氏の末裔がいる