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【キングダムと中国史】春秋戦国時代とは? 斉の桓公が覇者となり春秋時代が始まった?

『キングダム』を楽しむために春秋三国時代とは何か、始まるきっかけとなった覇者について解説します。 

 

 

春秋戦国時代とは?

周が異民族の犬戎(けんじゅう)の攻撃により300Km東遷(鎬京→洛陽)した紀元前770年以降、周による諸侯への支配力は低下していきました。

 

そんな中で、周王朝を支えて臣下をまとめる者、すなわちNo.2の実力者は誰なのか、諸侯達が争う時代がはじまります。これを「春秋時代」と呼びます。

さらに時が流れて周王朝がより弱体化すると周王朝よりも力を持った諸侯達が、自ら王を名乗るようになります。これが「戦国時代」です。

 

 

春秋時代の覇者とは?

周王朝の力が弱回る中、中原に秩序を取り戻し外敵の脅威から中原を守ることができる諸侯が必要だ!という機運が高まります。

そのような周王の代理として諸侯をまとめる人物を「覇者」と呼びます。諸侯達が覇者を目指す時代が春秋時代だったのです。

 

斉から春秋時代の覇者が誕生した!

紀元前7世紀(約2700年前)諸侯のなかでも一際実力があった国が「斉(せい)」でした。武王の軍師を務めていた太公望呂尚(たいこうぼうろしょう)を初代公爵とする山東半島に位置する国です。

紀元前7世紀の初頭には、太公望呂尚の末裔として襄公(じょうこう)が斉の14代君主として斉を治めていましたが、あまりの横暴ぶりから、公孫無知(こうそんむち)によるクーデターが発生。殺害されてしまいます。(紀元前686年)

襄公(じょうこう)が殺害されると、弟2人が国外へ逃亡することとなりました。

羌糾(きょうきゅう)は南の魯の国へ、羌小白(きょうしょうはく)は南東の莒の国へそれぞれ逃れます。

間も無くして謀反を起こし15代君主となった公孫無知も暗殺されると、斉の国の君主は不在となります。

襄公(じょうこう)の弟2人が皇位継承を巡って対立することになり、

結果としては羌小白(きょうしょうはく)が即位し、桓公と改名して16代君主として即位します。

桓公は宰相の管仲(かんちゅう)を採用して塩の生産、商業を促進して富国強兵を進めました。管仲とは『三国志』の諸葛孔明も尊敬していた人物です。

管仲は国を強くするためには、先に民の生活水準を上げることが重要であると主張したのです。管仲の考えは現代にも通ずることですね。

管仲のサポートにより力をつけた斉の国は周辺国を次々と攻略していきます。この時既に斉の国は周にも匹敵する力を持っていましたが、周を倒そうとはせず、周王朝を東へ追いやった異民族を追い払うという意味の「尊王攘夷」を唱えました。日本の幕末の「尊王攘夷」は春秋時代から来ているのですね。

紀元前651年に葵丘の会盟(ききゅうのかいめい)を主催します。桓公が諸侯を集めて約束ことを決めるとともに、桓公周王朝から文武の胙と赤色の矢を賜りました。これは周の天子から桓公の覇者の地位を認められたことを意味しており、日本でいうところの三種の神器を授かる儀式といったところでしょうか。

 

こうして、斉の国は桓公の時代に「覇者」となったのでした。

 

まとめ

春秋時代周王朝の代理として諸侯を束ねる「覇者」の座をめぐって諸侯がしのぎを削る時代である。

・戦国時代は周王朝が弱体化した結果、周王朝の気配から独立し、諸侯が自らを王と名乗りはじめた時代である

春秋時代の覇者は斉の桓公葵丘の会盟(ききゅうのかいめい)で諸侯を集めたことに始まる。