古代史好きなサラリーマンのブログ

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秩父の古代史:知々夫国造はだれ?

氷川神社鷲宮神社をはじめ、埼玉県には出雲系の神を祀る神社が多いことを前回の記事でまとめました。しかし埼玉県北西部の秩父地方には全く異なる神が祀られています。この記事では埼玉県の秩父の古代史についてまとめます。

 

 

知々夫国(ちちぶのくに)とは?

先代旧事本紀』国造本紀によれば、古代の武蔵国は知々夫国・无邪志国・胸刺国の3つに分かれており、それぞれ別の国造が国を治めていたことがわかります。

三国造のうちもっとも早く成立したと伝えるのは知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)で、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子の八意思兼命(やごろもおもいかねのみこと)十世の孫と伝える知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が国造に任命されたとされています。

 

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また、 『高橋氏文』によれば、磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)に従って景行天皇(第12代天皇)に料理を献上した天上腹(あめのうわはら)と天下腹(あめのしたはら)は知々夫国造の上祖であると記されています。

 

知々夫国造を祀る神社

先代旧事本紀』に一致するように秩父地方にある神社では思兼命(おもいかねのみこと)の末裔が祀られています。

武蔵国四宮である秩父神社の祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)や知知夫彦命が祀られています。

 

興味深いことに秩父地方のお隣の長野県でも思兼命(おもいかねのみこと)の子孫が祀られています。

阿智神社は長野県下伊那郡阿智村にある式内社で、『先代旧事本紀』に天八意思兼命が天降り、信乃阿智祝部の祖となったとあります。祭神は天八意思兼命とその子、天表春命(あめのうわはるのみこと)です。

長野県長野市戸隠神社(とがくしじんじゃ)宝光社には天表春命が祀られている他、戸隠山はは天照大神が籠っていた天の岩戸を天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が力まかせに投げ飛ばしたとき、その一部が飛んできて山になったという伝説から生じています。

     天岩戸神社天手力雄命の像

天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)も八意思兼命の子であり同族であることから、八意思兼命の末裔を称する一族は長野〜秩父にかけて拡大していたように思えます。

秩父国造を設置したのは上毛野国統治のため?

先代旧事本紀』によれば古代の国造のうち早い段階で知々夫国造が任命されており、これは東国の大豪族である「毛野国(けのくに)」を意識しての決定だったのではないでしょうか。

先代旧事本紀』の国造本紀にある国造を設置した時期に注目してみると、崇神天皇(第十代)の時には科野(信濃)・上毛野(上野)・知々夫の三国造のみが置かれていて、信濃→上野→武蔵という東山道の経路にそって置かれたことを示しています。

 

これに対し東海道の経路に従って設置されたのは成務朝(第十三代)以後で、地理的に遠い下総の印波・下海上(しもつうなかみ)の国造は応神朝(第十五代)です。つまり、知々夫国造武蔵国でもっとも早く朝廷に服属し、その統治領域は古墳分布から考えて荒川に沿った秩父郡と北武蔵一帯の地域であったと考えられます。

 

日本書紀』によれば崇神天皇の時に皇子である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が派遣され、これが後に上毛野君・下毛野君の遠祖となったとしており、皇室との一体関係が主張されているので、朝廷が毛野国をカギとして東国経略を進めたことを示しています。

埼玉と出雲:武蔵国は2つあった?

埼玉県と東京都の一部は古代において武蔵国(むさしのくに)と呼ばれていました。文献によってはムサシノクニが異なる漢字でまるで複数のムサシノクニが存在していたかのように記されています。この記事では武蔵国について考察していきます。

 

 

先代旧事本紀に伝わる2つの武蔵国

先代旧事本紀』国造本紀によれば、大宮氷川神社の創建に関わる出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が无邪志(むざし)国造となり、子の伊狭知直(いさちのあたい)が胸刺(むさし)国造となったとあります。

 

天邪志(むさし)国と胸刺(むさし)国は漢字が異なるため同じ国なのかは議論があります。

 

先代旧事本紀』国造本紀が初代国造に任命された人物だけを記しているとすれば、无邪志(むざし)国と胸刺(むさし)国は異なる国であったと考えられます。

武蔵国2国説

『新編武蔵風土記稿』では二国造説に立って、氷川神社の鎮座する足立郡大宮を无邪志国造の本拠に、都下多摩郡を胸刺国造の本拠としています。『埼玉県史』も同じ立場です。

 

これに対して姓氏研究の大家太田亮は、胸刺は〝ムサシ〟と訓ずべきで无邪志と同名の国であること、国造本紀の記載に重複が考えられるとして同一国造説を唱えています。

 

個人的には武蔵国2国説と考えています。理由は『日本書紀』に記された武蔵国造の地位を巡る豪族の対立に関する記事です。

 

日本書紀に記された武蔵国造の争乱

日本書紀』の第27代安閑天皇元年に武蔵国造の争乱に関する記事があります。6世紀前半

武蔵国では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)の地位を争っていた。小杵は関東全域に影響力を持つ上毛野(かみつけぬ)の豪族・小熊(おくま)に支援を求め、使主を殺そうとした。それを察知した使主は大和に逃げ経緯を訴え出た。朝廷は使主を国造と認め、小杵を誅殺(ちゅうさつ)した。使主は感謝のしるしに4カ所の領地を屯倉(みやけ)として朝廷に差し出した。

上の伝承から安閑天皇の時代六世紀前半頃の武蔵国造は「笠原直」という豪族だったことがわかります。笠原という名が地名に関連するとすれば、その地として『倭名類聚抄』の埼玉郡笠原郷、今の鴻巣市東部の笠原沼に近い地域が考えられます。

笠原に近い埼玉古墳群は、時期的に笠原直使主と合致する古墳もあり、笠原氏に関連する墳墓である可能性があります。さきたま古墳の近くにはまだ豪族の住居跡地は発掘されていませんので、時の権力者笠原周辺に住んでいたのでしょうか。

さきたま古墳の5世紀前半〜中頃に作られた稲荷山古墳から出土している鉄剣には加差披余と刻まれており、これを「カサハラ」と読むのではという説もあります。

個人的には稲荷山古墳が作られたのは安閑天皇の時代よりも50年以上前であることから笠原のことでは無いと考えています。しかし鉄剣にあるようにさきたま古墳の被葬者が中央政府(大和)と関係があったことから、子孫の笠原も大和からの助太刀を受けることができたのでしょう。

笠原直使主と小杵の間で争われた武蔵国造は、国造本紀に出てくる2つのムサシノクニ国造と同じものなのか、もしくは武蔵全域を支配していた国造なのかは断定できません。『埼玉県史』ではこの内紛は、胸刺国造の系譜を引く小杵が、无邪志国造家の笠原直使主に亡ぼされ、以後胸刺は无邪志に合一されたとの見解を取っています。

 

また、飛鳥京・藤原宮の木簡には「无耶志国(むざし-)」とあることから、7世紀頃までは「无射志」(むざし)や「牟射志」(むざし)と表記されていたことがわかり、戦いに勝利した側の国名が残ったように思えます。

 

この説ならば兄多毛比命の末裔は笠原と伊狭知直の末裔は小杵となり、『日本書紀』に同族とあるのも頷けますね。

 

 

 

古墳が物語る南武蔵勢力の縮小

さきたま史跡の博物館より改変

武蔵国造を巡る争いが起きた6世紀前半を境にして大規模な古墳が作られなくなった地域があります。それが多摩川沿岸に4〜5世紀にかけて前方後円墳が築かれていた南武蔵地域なのです。

 

この争いに敗れた南武蔵、また協力したとされる上毛野では6世紀中旬以降は小規模な前方後円墳しか作られなくなっており、反して武蔵国北部であるさきたま古墳には次々と大規模な古墳が作られていきます。これは武蔵国の派遣が南から北に移り、古代から強力な勢力であった上毛野に睨みをきかす存在にもなったということでしょう。

 

まとめ

古墳時代ムサシノクニは2つ存在していた可能性がある。

・2つのムサシノクニは6世紀前半に衝突し中央政府の支援を受けた无邪志国が戦いに勝利した。

 

 

埼玉と出雲:兄多毛比命(えたもひのみこと)とは

埼玉と出雲の関係を調べる中で氷川神社の創建のきっかけとなった出雲族である兄多毛比命(えたもひのみこと)について調べてみました。

 

 

氷川神社の創建に関わる兄多毛比命(えたもひのみこと)

氷川神社HPより

氷川神社の社伝によれば、第13代成務天皇の時代に出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造に任命され、氷川神社を崇敬したとあります。

 

兄多毛比命(えたもひのみこと)は『古事記』や『日本書紀』には登場しませんが、『先代旧事本紀』の国造本紀に登場します。

 

兄多毛比命(えたもひのみこと)とは

先代旧事本紀』の国造本紀によれば、兄多毛比命(えたもひのみこと)は第13代成務天皇の時代に无邪志(むざし)国造に任命されたとあります。

兄多毛比命(えたもひのみこと)の出自は、天穂日命(あめのほひのみこと)の14世孫で、出雲臣祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうかもろおしのかんさのみこと)の10世孫とあります。天穂日命は初代出雲国造であり、子孫が現在に至るまで出雲大社宮司を勤めている、いわゆる出雲族です。

出雲国造家系図』や新撰姓氏録』によれば天穂日命14世孫には野見宿禰(のみのすくね)がおり、同世代と考えられます。

それならば、兄多毛比命(えたもひのみこと)は垂仁天皇の時代の人物ではないかとも思えます。

垂仁天皇の時代であれば3世紀前半から4世紀前半

成務天皇の時代であれば3世紀後半から4世紀中旬

と予測します。

中国でいう三国志西晋五胡十六国あたりのどこかだと思われます。

 

1世代を25-30年として系図をさかのぼった↓

兄多毛比命(えたもひのみこと)の子

兄多毛比命(えたもひのみこと)の子らも重要な役職に任命されています。

兄多毛比命(えたもひのみこと)の子は多くが各地の国造になっており、関東の国造となるのは大鹿国直(おおかくにのあたい)と伊狭知直(いさちのあたい)の2人です。(他は山口、鳥取、福岡など西日本)

兄多毛比命(えたもひのみこと)の子・大鹿国直(おおかくにのあたい)海上国(かみつうなかみのくに)を分割し、菊麻(きくまの)国を新設しています。 

兄多毛比命(えたもひのみこと)の子・伊狭知直(いさちのあたい)は胸刺(むさし?)国造となりますが、兄多毛比命(えたもひのみこと)が国造を務めた天邪志(むさし)国とは漢字が異なるため同じ国なのかは議論があります。

兄多毛比命(えたもひのみこと)だけでなく、その子らも各地の国造になるとはいったい何者なのかと思うわけですが、その先祖についても見てみましょう。

 

兄多毛比命(えたもひのみこと)の先祖は?

先代旧事本紀』の国造本紀には兄多毛比命(えたもひのみこと)よりも先代の出雲族が関東の国造になったと記されています。

 

その勢力は千葉県西部から茨城県北部、千葉県北部へと拡大してくようにみえます。

成務天皇の時代に上海上(かみつうなかみの)国造に天穗日命の八世孫 の忍立化多比命(おしたちけたひのみこと)が任命された。

成務天皇の時代に新治(にいはりの)国造に天穂日命の八世孫の弥都侶伎命(みつろきのみこと)の子の天穂日命九世孫の比奈羅布命(ひならすのみこと)を任命した。

成務天皇の時代に 高(多珂)国造に天穂日命の八世孫の弥都侶岐命(みつろぎのみこと)の孫で天穂日命の十世孫弥佐比命 (みさひのみこと)を任命した。

応神天皇の時代に下海上(しもつうなかみの)国造に上海上国造祖の孫で天穂日命十世孫の久都伎直(くつきのあたい)を任命した。

成務天皇の時代に阿波(あわ)国造に天穂日命の八世孫の弥都宿岐命(みつろぎのみこと)の孫で天穂日命の十世孫の大伴直大瀧(おおとものあたいおおたき)が任命された。

成務天皇の時代に伊甚(いじみの)国造に安房国造祖の伊許保止命(いこほとのみこと)の孫の伊己侶止直(いころとのあたい)を任命した。

上記の国造本紀の記載を系図にしたものがこちらです。伊甚(いじみの)国造に任じられた伊己侶止直(いころとのあたい)は出雲族なのかどうかはよくわかりませんでした。

 

先代旧事本紀が物語る出雲族の拡大

先代旧事本紀』国造本紀から大平洋側に面した千葉県、茨城県に勢力を広げてきた出雲族が、兄多毛比命の代になって内陸である「无邪志国造」にまで拡大したことがわかります。

 

出雲族世襲するかのように次々と新たな土地の国造に任命されていく様子はまるで出雲族を中心とする国が関東平野にあったかのようにも思えてなりません。今後は考古学的な視点からもみていきたいと思います。

 

まとめ

・大宮の氷川神社の創建に関わる兄多毛比命は出雲族が千葉県、茨城県から埼玉県に拡大する際の重要人物だった

・関東の国造には天穂日命の末裔である出雲族が代々任命されている。

 

埼玉と出雲: 鷲宮神社は出雲族が創建したのか

この記事は鷲宮神社を参拝した記録です。

 

 

鷲宮神社とは

鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)は、埼玉県久喜市鷲宮一丁目にある神社です。「関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称しています。

祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)とその子の武夷鳥命(たけひなとりのみこと)、大己貴命(おおあなむちのみこと)です。

久喜市郷土資料館にて撮影

鎌倉時代の歴史書吾妻鏡』に度々登場しており、関東の武士に崇敬されてきた神社です。神社に伝わる「鷲宮催馬楽神楽」は、国の重要無形民俗文化財に指定されており、関東神楽の源流と言われ江戸の里神楽の基礎を形成したと云われています。

『らき⭐︎すた』第一話より

近年は、アニメの聖地として日本全国から多くのファンが参拝に訪れています。

 

鷲宮神社を参拝

鷲宮神社が鎮座するのは埼玉県の北東部の久喜市です。周辺にはJR宇都宮線東鷲宮駅東武伊勢崎線鷲宮駅があります。

北側を流れる利根川を北にわたると栃木県の古河市に面しています。

鎌倉時代には源や北条、室町時代には古河公方、江戸時代には徳川から保護を受け、時の権力者によって大切に守られて来た神社です。

鷲宮神社の境内からは縄文時代古墳時代の住居の跡が見つかっています。古代において鷲宮神社が鎮座するこの地は台地であったことがわかっており、古来から人が住んでいたのでしょう。

鷲宮神社HPより

天穂日とその子武夷鳥宮が、昌彦・昌武父子外二十七人の部族等を率いて神崎神社(大己貴命)を建てて奉祀したのが始まりとあり、崇神天皇時代には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命彦狭島命、御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。 景行天皇時代には、日本武尊が武夷鳥宮を奉祀したとあります。

 

社伝には古代史におけるオールスターが登場してますが、本当に彼等が鷲宮神社にやって来たのかを含めて詳しい解説は下記のブログで。

鷲宮神社に伝わる神楽

鷲宮神社には「土師一流催馬楽神楽(はじいちりゅうさいばらかぐら)」が伝わっています。

彩の国21世紀郷土カルタより

催馬楽とは、平安時代に流行した歌謡で、地方から都に税を運ぶ馬子が歌ったことから催馬楽と呼ばれたとする説があります

鷲宮神社の神楽は少なくとも、鎌倉時代の建長3年(1251)には行われていたことが、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』の記事から確認できます。

鷲宮神社の拝殿の目の前には神楽を舞うための神楽殿がありました。

楽殿の前に拝殿があります。利根川がある北に向かって拝むようになっています。

本殿

本殿

みひかりの池

 

八幡神社

鹿島神社。埼玉県でありながら東部に位置するので茨城県沿岸部の鹿島信仰もここまできてますね。

栗島神社

諏訪神社。境内に縄文時代の住居跡があり、縄文の神を祀っているのでしょうか。

 

鷲宮神社式内社でない理由

出雲族の伝承を持ち、少なくとも鎌倉時代には時の権力の崇敬を受けていた古社であるにも関わらず、平安時代編纂の『延喜式』に掲載されていないのはなぜでしょうか。地形的な理由から考えてみたいと思います。

古代における武蔵国の地形は、西部に山(秩父、比企、入間等の山岳地帯)、東部に傾斜して平地(児玉、大里、北埼玉、北足立、北葛飾、南埼玉)があり、ここに利根川、荒川、入間川多摩川等が流れていました。

久喜市郷土資料館より

縄文時代(約6000年前)の中でも温暖な時期の東京湾は現在よりも北方へ流れ込み、栗橋付近から埼玉郡の一部は「埼玉の入り江」が形成され、大宮より川越付近まで海水に浸され、豊島足立にも入り江があったとされています。その後寒冷化に伴い東京湾は退化し、現在の姿になっていったと考えられています。

久喜市郷土資料館より

トラックや鉄道がない古代においては河川による交通は重要で物資の流通の手段であり、利根川、荒川等は河川交通として利用されてきたでしょう。

 

鷲宮神社はかつて「浮島大明神」と呼ばれていたように、古代において鷲宮神社の周辺が海湾であった名残から、河川や沼が残り、台地の上に鎮座した鷲宮神社はまるで島の上に浮かんでいるように見えたであろうことを物語っています。

 

 鷲宮神社出雲族にかかわる歴史ある神社であるにもかかわらず、式内社から漏れたのは、おそらく当地一帯が河川乱流区域で、『延喜式』編纂当時は開発が進んでおらず、この地を支配する氏族の力が弱かったためではないでしょうか。

【稲荷山古墳 鉄剣】乎獲居臣(おわけおみ)の先祖は大彦命か?

さきたま古墳郡の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた乎獲居臣(おわけおみ)の系図について考察していきます。

大彦命(おおひこのみこと)とは?

10代崇神天皇の時代に派遣された四道将軍の1人として、北陸に派遣された人物です。

稲荷山古墳から出土した鉄剣には「意富比垝」とあり四道将軍大彦命の末裔がさきたま古墳の被葬者であるとする説があります。

 

北陸に派遣された大彦命の子孫が埼玉県行田市にでこれほど大規模な古墳を作ることができるのでしょうか?

 

大彦命(おおひこのみこと)を祀る神社

記紀』で北陸に派遣されたと記されるならば、大彦命を祀る神社は北陸に多いのでしょうか。

 

日本全国の大彦命を祀る神社を地図にプロットしてみましょう。

古四王神社 秋田県秋田市

古四王神社 山形県鶴岡市

胡四王神社 福島県白河市

伊佐須美神社 福島県会津美里町

石井神社 新潟県新発田市

古四王神社 新潟県新発田市

船江神社 新潟県中央区

櫻井神社 新潟県弥彦村

鵜坂神社 富山県富山市

布勢神社 富山県氷見市

舟津神社 福井県鯖江

松阜神社 福井県鯖江

船津神社 福井県船津町

広野神社 福井県坂井市 

神邉神社 島根県大田市

鹿刺神社 島根県久手町

大津神社 岐阜県飛騨市

相鹿上神社 三重県多気

飯野高宮神山神社 三重県松坂市

敢國神社 三重県伊賀国一宮

沙沙貴神社 滋賀県安土町

備後国護国神社 広島県福山市

 

九州、四国、関東地方にはなく日本海側と畿内、東北地方に多いことがわかります。

古事記』では、崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志(こし)道に、建沼河別命は東方十二道に派遣され、大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられたとあります。

面白いことに福島県会津美里町には大彦命を祀る伊佐須美神社があります。

福島県新潟県をつなぐ古代の道路に越後街道(会津街道)があり、新発田市に古四王神社があります。

 

大彦命は越後街道(会津街道)を通って、あるいは阿賀野川を通って福島方面へ向かったのでしょうか。

 

北陸を平定した大彦命会津に入ったという伝承はあながち間違いではないのかもしれません。大彦命一代で東北地方まで広がったのではないにせよ、大彦命を祀る子孫たちが広がっていたのは事実でしょう。

 

大彦命末裔と景行天皇と千葉

 

東北にやってきた足跡は大彦命を祀る神社から明らかになりました。では、大彦命の子孫が関東に赴任したのはいつなのでしょうか。

 

日本書紀』によると大彦命の孫の「磐鹿六鴈(いわかむつかり)」が景行天皇53年10月に東国遠征に同行したとする記事があります。

景行天皇の東国巡幸において上総国に至り海路から淡水門(あわのみなと:安房の水門)を渡る際、覚賀鳥(かくがのとり:ミサゴの古名)の声が聞こえたので、天皇がその姿を見ようと海の中に入ると、白蛤(うむぎ:ハマグリ)を得た。この時に磐鹿六鴈が、蒲を襷としてその白蛤を膾にして献上した。その功で六鴈は膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜ったという。

新撰姓氏録』(高橋朝臣本系)逸文によれば、景行天皇の時に磐鹿六獦命が「膳臣」の氏姓を賜ったのち、天武天皇の時に六獦命十世孫の膳国益が「高橋朝臣(高橋氏)」に改めたとあります。

 

大彦命の子孫は「高橋」と名乗っていることはさきたま古墳群の鉄剣にも同じように記されています。

 

さきたま古墳の鉄剣に刻まれた大彦命系図

さきたま古墳郡の稲荷山古墳から出土した鉄剣には意富比垝から乎獲居臣までの系図が刻まれています。

初代大彦命のひ孫には多加披次獲居(たかひしわけ)がおり、これをタカハシワケと読むとする説もあります。

新撰姓氏録』では高橋氏に改めたのは磐鹿六獦命の10世孫とあるので、時代は一致しません。

 

しかし、大彦命の末裔に「たかはし」と似た名前を名乗るという共通点には同族関係にあることを表しているようにも思えます。

 

磐鹿六獦(いわかむつかり)を祀る神社

景行天皇が関東は巡行した際に料理を振舞ったとされる磐鹿六獦(いわかむつかり)は、死後、宮中の料理神として祀られ、子孫は千葉県の領主となったとされています。

磐鹿六獦(いわかむつかり)の子孫は上総国淡路国の長として任命されたとあります。

安房国(あわのくに)にあたる南房総市には磐鹿六獦(いわかむつかり)を祀る高家神社があります。

 

その他の磐鹿六獦(いわかむつかり)を祀る神社は栃木県にニ座あり、どちらも千葉県方面から鬼怒川を北側にさかのぼったところにあります。

 

磐鹿六獦(いわかむつかり)を祀る子孫は安房(千葉県)から栃木県へと広がっていったのでしょうか。

 

磐鹿六獦(いわかむつかり)を祀る神社

高橋神社 栃木県芳賀町高橋

高橋神社 栃木県小山市 高家神社 

千葉県南房総市 高橋神社 

静岡県三島市 高橋神社 奈良県奈良市

 

まとめ

大彦命を祀る神社は北陸、東北に多い。

大彦命の子孫は会津街道を通って北陸から東北に移動したか。

大彦命の子孫である磐鹿六獦(いわかむつかり)は景行天皇の時代に関東へやってきたか。

磐鹿六獦(いわかむつかり)の子孫は安房国の長となり鬼怒川をたどって栃木県へ勢力を拡大したか。

磐鹿六獦(いわかむつかり)の子孫は後に高橋氏を名乗るが、稲荷山古墳鉄剣にも大彦命のひ孫としてタカハシワケの名があり、同族関係である可能性がある。

・千葉県に勢力を持った大彦命の子孫が利根川荒川水系をさかのぼってさきたまにやってきて、さきたま古墳郡を作った可能性がある。

 

埼玉と出雲②身狭村主青(むさのあお)が東国に派遣され稲荷山古墳に埋葬された?

謎多き古代の埼玉を妄想してみました。

 

利根川荒川水系が張り巡らされた平地に4世紀終わりから突如として出現するさきたま古墳の謎は外部から巨大な勢力がこの地に現れたことを考えずにはいられません。

 

さきたま古墳郡の稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた乎獲居臣は大和政府の東国支配に貢献した身狭村主青(むさのあお)ではないかと考えてみました。

 

 

 

身狭村主青(むさのあお)の派遣

23代雄略天皇(5世紀中旬)によって身狭村主青(むさのあお)が大和地方から関東に派遣されて、東国の豪族(笠原氏?)の娘と婚姻し、「乎獲居臣」と名乗った。

 

中国系渡来人(呉の孫権の末裔)である身狭村主青の一団には、かつて遼東半島で燕王を名乗った公孫氏の末裔も参加していた。そのためさきたま古墳郡には常世姫神社(とこよきひめじんじゃ)神社が鎮座している。

 

さきたま古墳にある常世姫神社(とこよきひめじんじゃ)は利根川下流にある荒木常世姫神社(とこよきひめじんじゃ)から分霊したとあり、身狭青は武勇に優れた公孫氏を隣国からの防衛線に配置したのだろうか。

 

身狭村主青(むさのあお)は「ムサノ国」を治めた。ムサノ国の周辺には遠い昔に関東にやってきた豪族の国が複数あった。

10代崇神天皇(3世紀後半)の皇子、豊城入彦命(とよきいりひこ)の血を引く上毛野の一族、250年±80年に出雲を滅ぼされ逃れて来た天之菩卑能命(あめのほひ)の末裔の出雲族、長野県からやって来た八意思兼神(あめのやごころおもいかねのみこと)の末裔がつくった知々夫国。

出雲族との同盟

まずは利根川水系下流に位置する出雲族と力を合わせることとした。

出雲族の拠点であった足立郡には武蔵国一宮氷川神社鷲宮神社が鎮座しており、出雲族の末裔であると社伝が残っている。

 

男衾郡大里郡比企郡横見郡入間郡には出雲の神を祀る式内社が残っている。そして埼玉郡にも出雲族である前玉姫(さきたまひめ)を祀る前玉神社が鎮座しているのは偶然ではないだろう。

 

こうして出雲族との同盟に成功したムサノ国は儀礼に優れた出雲族を初代国造として任命した『古事記』には天之菩卑能命(あめのほひのみこと)の子建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)などの祖であるとされている。

 

身狭青は大彦命の末裔なのか

稲荷山古墳の鉄剣には「乎獲居臣」は大彦命の末裔であると刻まれている。

 

大彦命は10代崇神天皇の時代に4道将軍として北陸に派遣されたレジェンドであり、東北地方の豪族の阿部氏の祖先とされている。

 

ただ、身狭青は中国系渡来人であり祖先が大彦命であるとは考えづらい。

身狭青(むさのあお)が作った奈良県橿原市牟佐坐神社(むさにいますじんじゃ)にはなぜか大彦命の父である孝元天皇が祀られている。

 

元は違う神が祀られていたのが明治以降に孝元天皇が祀られたのか、あるいは身狭青が大彦命の血を引く女性を妻に迎えたのだろうか。

 

後者だとすれば乎獲居臣の父、加差披余(かさはよ)は関東に赴任した際に身狭青を迎えいれた現地の豪族である「笠原」なのではないだろうか。

笠原という地名は埼玉県鴻巣市と宮代町にある。

身狭青が東国に派遣されてから100年後、27代安閑天皇の時代に笠原氏は大和政府と協力して、上毛野氏と同盟を結んだ小杵(おき)を倒して武蔵国造となっている。

古墳時代の武蔵国より

 

まとめ

もしも雄略天皇の右腕である身狭青が関東にやって来たら…という妄想を膨らませてみた。

 

江田船山古墳の鉄剣が身狭青(むさのあお)と双璧をなした檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)だったらロマンがあるとは思う。

 

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【稲荷山古墳 鉄剣】乎獲居臣(おわけおみ)は身狭村主青(むさのあお)なのか?

埼玉古墳郡の稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた獲加多支 (わかたける)大王に左治天下したとされる乎獲居臣(おわけおみ)とは誰なのか考えていきたいと思います。

 

目次

 

稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた内容  

稲荷山古墳の鉄剣には乎獲居臣(おわけおみ)が斯鬼宮(しきのみや)で獲加多支 (わかたける)大王に仕えた事、乎獲居臣(おわけおみ)の祖先の名前が記されています。

獲加多支 (わかたける)大王は21代雄略天皇だと考えられています。『古事記』では「大長谷若建命」、『日本書紀』では「大泊瀬幼武天皇」と記されているためです。 

 

 

雄略天皇の右腕身狭村主青(むさのあお)

雄略天皇に仕えていた人物として乎獲居臣(おわけおみ)らしき人物が古文書に登場しないのか見ていきます。

 

日本書紀』巻第十四

雄略天皇は自分の心だけで決断し、「誤りて人を殺したまふこと衆(おお)し」と言われた。天下の人たちは天皇をそしって、とても悪い天皇である、というふうに評された。そのような中で天皇が寵愛したのは、身狭村主青と、檜隈民使博徳らのみだったという。 

 

雄略天皇が寵愛したとされる身狭村主青(むさのあお)と、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)はどちらも中国から来た渡来人です。

 

身狭 青(むさ の あお)は呉の孫権の末裔?

青は渡来氏族身狭(むさ)氏の出自であり、雄略天皇が設けた史部(ふみひとべ)としての知識、技能を認められ、外交面での活躍した人物です。

Wikipediaより

 『日本書紀雄略天皇8年(464年)、雄略天皇12年(468年)に呉の国(宋)に派遣されたと記されています。(『宋書』には登場しない)

 

身狭氏の由来は村の名前であると見られています。『新撰姓氏録』左京諸藩下には「牟佐(むさ)村主」とあり、「呉ノ孫権ノ男ノ高ヨリ出ヅルナリ」と伝えており、『新撰姓氏録逸文には「牟佐村主」は仁徳天皇(4世紀後半〜5世紀前半)の御世に渡来し、大和国檜隈(ひのくま)に居住したともあります。

横山光輝三国志』より

身狭村主青(むさのあお)はまさかの呉の孫権の末裔という三国志ファン大歓喜のプロフィールでした。

Wikipediaより

司馬炎によって孫権の呉が滅亡したのが280年。仁徳天皇の生まれた年は330年もしくは370年と予測しています(※仁徳天皇古事記では427年に崩御したとある)ので呉の難民が日本に流れてきていてもおかしくはないと思います。

 

身狭青が治めた大和国檜隈

大和国檜隈(ひのくま)という地名にビンビンくるのですが、ひのくま=火の熊といえば、『松野連系図』で火国造(ひのくにのみやつこ)に任命された熊襲一族を思い出します。

Wikipediaより

『松野連系図』の松野連は『新撰姓氏録』で中国戦国時代のの太伯の末裔とされているんですよね。  

大和国檜隈(ひのくま)の歴史は応神天皇の時代に後漢霊帝の後裔(ひ孫)と称する阿知使主(阿智王)が17県の人夫を率いて百済から日本へと帰従し、大和国高市郡檜前村を賜って居住したとあります。

 

後漢の末裔がひのくまを名乗る理由もわからないのでもっと古い時代から呉と関係があった地名なのかもしれませんね。  現地に行って由来を探したいところ。於美阿志神社行きたい。

 

まとめ

応神天皇の時代に後漢霊帝の末裔阿知使主が大和国檜隈に移住

仁徳天皇の時代に呉の孫権の末裔の牟佐村主大和国檜隈に移住

雄略天皇の時代に身狭青が史部として外交で活躍

 

身狭青は中国系渡来人なので、稲荷山鉄剣に刻まれた祖先とは系図が繋がりません。また、杖刀人首(じょうとうじんのしゅ)という役職は武官。現代で言う軍のトップだとすれば、身狭青は文官、現代で言う官僚として活躍した人物なのではないか。よって身狭青=乎獲居臣(おわけおみ)説は否定されそうです。