前回の記事では利尻島のグルメについてまとめました。今回は利尻島の歴史回です。
利尻島の長浜神社
利尻町(沓形)で利尻らーめん味楽を食べたあと、利尻町立博物館を目指して島を南へ進むと気になる神社があったので立ち寄りました。
長浜神社とは『出雲国風土記』「国引き神話」の主人公である「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」を主祭神として祀る神社です。
海岸沿いに海に向かって鎮座する長浜神社
神社に続く階段の下には木彫りや龍の頭が。
「利尻麒麟獅子(りしりきりんじし)」といって、赤い獅子と赤い猿の面を被った人物と、鼻の高い神、猿田彦が登場します。鳥取県から移住した人々(因幡衆)が伝えた神事だそうです。
麒麟獅子の起源とは?
鳥取の麒麟獅子の舞いは、徳川家康の孫(家光)が因幡東照宮(現・鳥取東照宮)を建立した際に、鳥取藩の初代藩主池田光仲の頃、舞い始められたとされています。
※因幡東照宮:鳥取藩初代藩主池田光仲(いけだみつなか)が初めて国入りした慶安元年(一六四八)に幕府から東照宮勧請が許可され、慶安三年(一六五〇)に創建された。
麒麟獅子は古代の犬舞という説があります。犬舞とは東大寺の開眼供養(752年天平勝宝4年)で舞われた蘇芳菲(そほうひ)(雅楽の曲名)のことで、天台神道(天台宗による神仏習合理論)とともに各地に伝わり、鳥取にも伝わったのではないかという説です。
発祥の地京都では少なくとも室町時代には蘇芳菲の犬舞が廃れて、舞う習慣がなくなってしまったようです。鳥取では脈々と受け継がれていく中で犬→馬→麒麟と変化していったのではないかと考えられています。
なぜ麒麟獅子を東照宮で披露したのか?
それではなぜ、鳥取藩主池田満仲は日光東照宮(徳川家康の墓、神社)で麒麟獅子を披露したのでしょうか?
ただ、ご当地の踊りをアピールしたかっただけではないような気がするのです。
それは日光東照宮創建に関わった一人の人物の存在が関わってくると思われます。
その人物は南光坊天海(なんこうぼうてんかい)です。108歳と長寿だった天海は、家康・秀忠・家光の徳川将軍3代に仕え、日光東照宮の造営に強く影響を与えたといわれています。
天海は天台宗の大僧正で「山王一実神道」を説いて発展させました。
山王神道は、天台宗総本山比叡山延暦寺で生まれた神道の流派で神仏習合を説明しています。山王神道では山王を天台宗の鎮守神とており、日吉権現、日吉山王権現して信仰しています。
さらに、山王一実神道では、山王権現とは大日如来であり、天照大神であると説いています。
徳川家康が江戸に来る100年ほど前に江戸城を築城した太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社(山王日枝神社:千代田区永田町二丁目)を建てたことから、江戸時代には徳川家も氏神としたもいわれています。
つまり、徳川家の氏神である山王権現と、日光東照宮の発案者である天海の思想(山王一実神道)と大仏開眼供養で舞われ、天台神道と共に広がった麒麟獅子は、非常に親和性が高い(似ている、共通のルーツを持つ)のではないかと思うのです。
江戸時代初期、徳川家のお膝元で山王一実神道が流行した中で、鳥取藩主池田満仲は「鳥取では何百年も前から天台神道を大切にしてまっせ!この麒麟獅子をみてくれ!!」という思いで東照宮の神事としたのではないかと思うのです。
麒麟獅子と犬舞と天狗の謎
猿田毘古大神(19世紀後期画)wikipedia より
利尻麒麟獅子に登場する猿田彦とは日本神話の天孫降臨の際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けた瓊杵尊(ににぎのみこと)を高千穂へと導いた神様です。
古事記の記載から猿田彦はしばしば鼻の高い日本人離れした姿で描かれる事が多く、👺天狗(てんぐ)の原型とも言われています。
鳥取の因幡(いなば)で舞われている「獅子舞神楽」や鳥取の旧氏族が移住した北海道釧路市の鳥取神社でも獅子舞があり、獅子と赤い仮面の猿と天狗(猿田彦?)が登場します。
獅子舞は全国各地に残る神事ですが、天狗と獅子がセットになって登場する事が定番のようです。
天の狗(いぬ)と書いて天狗と読むように、天狗と獅子(らいおん)には何か特別な関係があるのかもしれないなと思いを馳せることができました。
獅子舞も奥が深い。新潟県の弥彦神社には、「天犬舞」があるそうです。弥彦神社では弥彦は天香語山と同一人物とされており、丹後の神話も絡んできてしまいます。次は弥彦神社に行ってみたいですね〜。
利尻島シリーズ