古代史好きなサラリーマンのブログ

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大阪旅:式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)は武甕槌の子孫ゆかりの地か?

この記事は式内楯原神社に行った感想です!

大阪に興味深い地名にある式内社があったので行ってきました。

 

 

地下鉄谷町線喜連瓜破(きれうりわり)駅から徒歩15分のところにある式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)です。

喜連瓜破駅は喜連と瓜破2つの町名からきています。喜連の由来は古代に中国からこの地へ集団移住してきた土木・工芸の技術集団である呉人(くれびと)のクレがなまり、キレという地名になったものという説があります。

 

瓜破については飛鳥時代に疫病が流行した際に、瓜を割って天神に供えたところ疫病が治った伝承から名付けられています。

式内楯原神社に参拝

大阪市平野区喜連(きれ)にある式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)は延喜式神名帳摂津国住吉郡の項に楯原神社と記載のある式内社です。

御祭神は武甕槌大神大国主大神孝元天皇菅原道真・赤留姫命の五柱です。

いにしえは、もとの宇楯原(現在の喜連一丁目、近畿電波管理局敷地)にあったが、兵火に遇って現在の地に選座し、桓武天皇のとき(西歴八〇〇年頃)宇十五の龍王社を合祀し、境内別殿として奥の宮と称した。さらに、元和年間(一六二〇年頃)付近の天神社を合祀し、天神社と称するようになり、楯原の社名は別殿の奥の宮に移った。(現在の奥の宮には、十種神宝

宮を摂柱として選座、日本最初の神室で、十種の核は大正三年内務省選定)このため、明治五年、式内の楯原神社は社格を得ず・併和の天神社が村社となる状況であったが明治四十年、神社整理を機に現在の社名に改められた。当社には、萬葉集にも詠われている息長家の陣が祀られている。

 

気になることが多いですが祀られている神や社名が変わりすぎてよくわからなくなってしまっているように思います。

大阪府平野区あかる姫祭りより

まず、赤留姫命(あかるひめのみこと)ですが、赤留姫命は古事記』で新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻として登場します。

延喜式神名帳の住吉郡には式内社の赤留比命神社の記載があり、その論社は抗全神社の飛地境内社である赤留比賣命神社となっていますが、当社を論社とする説があるよう。平野郷にある赤留比命神社より勧請したものだという説もあるようでわかってはいないようです。

 

式内楯原神社に伝わる武甕槌の子孫の伝承

本殿に祀られているのは、武甕槌大神大国主大神です。出雲の国譲り神話を彷彿とさせる二座の神様が祀られる神社は珍しいのではないでしょうか。

社伝によると出雲の国譲りの際に大国主から武甕槌大神に授けられた「国平(くにむけ)の鉾(ほこ)」と、武甕槌大神が没する時に孫の大々杼(おおど)命に授けた「十握剣(とつかのつるぎ)」を祀ったことが始まりと言われているそうです。

子孫の大々杼(おおど)彦仁は神武東征にあたって、神宣によりその十握剣を持って熊野へ赴き、これを奉ったため大和平定の功が成ったといいます。

 

大々杼彦仁はこの功績により大々杼国造に任じられ、剣臣の名を賜ったとされますが、『古事記』『日本書紀』にはこのような国造の存在は確認できません。

この社伝に良く似た神話として、武甕槌命の剣が熊野で高倉下(たかくらじ)から神武天皇に献上される話が『記紀』にもあります。

高倉下が神のお告げを聞き、倉に行くと武甕槌の剣が空から降ってきており、その剣を神武天皇に献上したというストーリーです。

 

高倉下は物部系の一族なので、なぜ武甕槌から剣を授かったのだろう…と疑問を感じていたのですが、武甕槌の子孫である大々杼(おおど)氏が先祖伝来の剣で神武天皇を助けた、と解釈できるのかもしれません。

 

後に十握剣(とつかのつるぎ)は物部氏の本拠地である石上神宮(いそのかみじんぐう)で保管されたので、月日が経つうちに大々杼(おおど)氏の部分が省略されてしまったのではないでしょうか。

 

つまりは、武甕槌の子孫がこの地にやってきて建てた神社であること、子孫は大々杼(おおど)と名乗ったことはわかります。

 

楯と鉾を祀る神社に分けられる

大阪府全誌』に載せられる喜連の地の古伝承を記した「北村某の家記」には、喜連の地が大々杼(おおど)国大々杼郷と呼ばれていたこと、崇神天皇7年に、大々杼名黒に詔して祖神の建御雷男命を「楯之御前社」、大国主命の霊代である国平の御鉾を「鉾之御前社」として祀ったことが記されていて、その祀られた地は、楯原神社の旧社地の字楯原の地であったといいます。

北村某の家記については↓

 

住吉大社との関係

時代は4世紀頃、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐をした際に、式内楯原神社の大々名黒がお告げを神功皇后に伝えたところ、戦に勝利したといいます。

これがきっかけで、楯之御前社と鉾之御前社に神離を立てられ、これが住吉大社に楯社(武甕槌命)と鉾社(経津主命)がある所以とも言われているそうです。

 

元は鉾と剣だったのが、この時代に鉾と盾を祀るようになったのですね。

なぜ十種神宝が祀られているのか

奥宮には十種神宝を祀っています。十種神宝といえば物部氏石上神宮に祀る宝のはずですが、なぜここに祀られているのでしょうか。

 

天正元年(1573年)に石上神宮織田信長の焼き打ちに遭った際、十種神宝も持ち出されて所在不明となっていた。ところが、何者かが神宝を保護しており、豊臣秀吉がこれ聞いて「生魂の森」の深くに奉納した。しかし、慶応3年(1867年)にお蔭参りの興奮の中で神宝は「生魂の森」から持ち去られた。その後、町の古道具屋の店頭に晒されていたところを喜連に住む小林某なる人が発見し、買い求めて家に祀った。小林氏はこの地を去る際に神宝を浅井家に預け、浅井家もまたこの地の旧家増池氏に預けたが、増池氏は昭和初年に楯原神社に奉納し、社殿を建立して「十種神宝社」と称して奉斎した。その後、室戸台風に遭い社殿が壊れたため、永らく拝殿に祀っていたが、今里の庄司氏(石上神宮守護職の子孫)から石上神宮に返すよう頼まれたときも返さず、新しい社殿を建立して祀り続けた。

 

つまり、織田信長による焼き討ちのあと石上神宮から持ち出された十種神宝が巡り巡って当地の奥宮に奉納されているだけで、祭神や由緒とは関係ないことになります。素人目にみると石上神宮に返還してあげたらよいのではないでしょうか…

式内楯原神社の近くに武甕槌の子孫の墓はあるか?

喜連瓜破には古墳時代の遺跡があります。

武甕槌の子孫である大々杼氏の陵墓なのか考察していきたいと思います。

喜連瓜破霊園の中にある、瓜破遺跡は河内台地の先端である瓜破台地に作られた旧石器時代から江戸時代までの遺跡です。  

 

古墳時代には花塚山古墳(5世紀)、ゴマ堂山古墳(5世紀)があり、愛媛県の市場南組釜で焼かれた須恵器と渡来人の居住を示す韓式土器が出土しているようです。

花塚山古墳は5世紀築造の円墳もしくは方墳で直径25m、高さ2.5m、周囲に幅5mの濠が確認されています。

 

本格的な発掘はされていませんが。頂上部には木棺があるそうです。5世紀築造ではありますが、長原古墳や百舌鳥古墳とは異なる作りであり、別の一族が埋葬されていると思われます。

 

5世紀といえば倭の五王の時代であること、韓式土器が出土していること、古墳が大和の豪族と異なる事から、花塚山古墳はこの地に移住した渡来系の王族(呉国)のものではないかと考えます。それが喜連(きれ)という地名につながったのではないでしょうか。

 

まとめ

武甕槌の子孫である大々杼命がこの地を拠点にし、神功皇后の時代にここに神社が建てられ、葛城襲津彦が歴史を作った後、 喜連に渡来人が住むようになった。