この記事ではかつて息長氏の本拠地は大阪(平野区喜連)だったという仮説を基に、息長氏が近江に本拠地を移した理由は「隼別皇子(はやぶさわけのみこ)の乱」にあるとする説をまとめていきます。
隼別皇子(はやぶさわけのみこ)とは

『隼別皇子の叛乱』より作成
隼別皇子(はやぶさわけのみこ)は5世紀頃の古墳時代の王族で、第15代応神天皇の子で、第16代仁徳天皇とは異母兄弟にあたります。
隼別皇子(はやぶさわけのみこ)は仁徳天皇に対して謀反を起こしたことが『古事記』『日本書紀』に記されています。

仁徳天皇は雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を妃にするため、弟の隼別皇子(はやぶさわけのみこ)に結婚の仲立ちを頼みました。しかし、密かに雌鳥皇女(めとりのひめみこ)に思いを寄せていた隼別皇子(はやぶさわけのみこ)は彼女を妻にして復命せず、さらに皇位への野心をうかがわせます。
仁徳天皇は隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を許しますが、不敬の言動が本人、周囲からも相次いぐようになり、やむを得ず2人を討つことを決定します。
『日本書紀』によれば、追っ手として、吉備品遅部雄鯽(きび の ほむちべ の おふな)・播磨佐伯直阿俄能胡(はりま の さえき の あたい あがのこ)らの軍兵が差し向けられ、皇子夫妻は伊勢神宮へ逃げる途中の伊勢国の蒋代野(こもしろのの)(古事記では大和国の宇陀の蘇邇(そに))で捕らえられ、2人とも殺されたといいます。
隼別皇子(はやぶさわけのみこ)は生きていた?
記紀では隼別皇子らは伊勢に逃れる途中で討たれてたと悲しいエピソードが伝えられています。一方で隼別皇子(はやぶさわけのみこ)が無事に伊勢に脱出し、東海道から全国の味方を蜂起させ、伊勢・熊野から最大で住吉にまで勢力を前進させていたとしたらどうでしょうか。
本拠を住吉に進めたというのは南北朝時代の南朝にもあったことであり、地政学的に見れば共通して然りです。仁徳天皇としては対策として、住吉周辺を一時的に直轄地としなければならなかったのではないでしょうか。

当時住吉の港周辺を納めていたのが、以前の記事で書いた倭建命の血筋を引く息長氏でした。『北村某の家記』によれば、仁徳天皇の時代に意富富杼王(おおほどのおおきみ)が近江に渡って近江の息長氏の祖となったとあります。
近江は息長氏の発祥の地として息長氏にとって意味のある土地です。息長氏の始祖である日子坐命(ひこいますのみこと)が近江の三上(みかみ)の息長氷依比賣(おきながひよりひめ)を娶って丹波比古多々須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)を生んだというのが最初期の「息長」という名の登場だからです。つまり、息長氏としては本来の本拠に帰ったことになります。
この大阪の息長氏の近江への異動を仁徳天皇による国替政策として考えるならば、物流の拠点であり東日本と西日本を繋ぐ交易地である近江の統治者として息長氏を配置したということになります。
息長氏が去ったあとの平野区喜連
息長氏の土地を直轄地とした仁徳天皇はこの地に渡来人を多く移住させていったようです。
『北村某の家記』によると仁徳朝に帰化した呉人を住まわせたので「伎人郷(くれひとごう)」と呼んだとあります。これが現在の地名の喜連(きれ)に繋がっています。
『日本書紀』では仁徳五十八年に呉国が朝貢した記事があり、関係もあるのでしょうか。
呉人の移住にあたっては朝鮮半島における軍事を司っていた氏族である葛城氏(かつらぎうじ)の勢力の扶植していったことが予想されます。

式内楯原神社の東南には長吉長原といわれる地域があり、由来は葛城襲津彦(別名:長江襲津彦)を祀る式内社の志紀長吉神社がありました。

志紀長吉神社の南側には大和川が流れ、南部に拠点を構える隼別皇子軍に対する防衛の拠点であるこの場所に葛城氏とそれに従う渡来人を配置したようにも思えます。
まとめ
・仁徳天皇の異母兄弟である隼別皇子が謀反を起こしたことが記紀に記されている