古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

旅行に行く前に読んだら楽しくなるブログを目指してます。古代史、神話、医療に興味があるサラリーマンが全国を旅した発見を書き連ねます。

(古代史妄想)出雲の国譲りはいつ?

出雲の国譲り神話か史実を元にしているとするならば、いつの時代の出来事だったのか?妄想してみました!

 

 

 

結論から申しますと、出雲の国譲りは3世紀中旬頃の出来事だったのではないかと考えています。

 

式内楯原神社に伝わる武甕槌の子孫の社伝

出雲の国譲りの時代を知りたくなったのは、大阪府大阪市平野区喜連(きれ)にある式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)は武甕槌の子孫のゆかりの土地であると知ったためです。神話の中の神様というイメージから実在した人物なのではないかと考えました。

式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)の社伝によると、出雲の国譲りの際に大国主から武甕槌大神に授けられた「国平(くにむけ)の鉾(ほこ)」と、武甕槌大神が没する時に孫の大々杼(おおど)命に授けた「十握剣(とつかのつるぎ)」を祀ったことが始まりと言われているそうです。

①武甕槌 ②子 ③ 大々杼命 となります。また、式内楯原神社の社伝では、大々杼命の子孫の大々杼彦仁は神武天皇に剣を献上したとたあります。この子孫が何世代あとなのかは不明です。

 

では、出雲の国譲りと神武天皇の時代がどれくらい離れているのか系図で確認してみましょう。

古事記』『日本書紀』では国譲りの時代について、天照大神などの神々が活躍する時代、神代と説明しています。天照大神と武甕槌が同じ時代の人物であるとするならば、以下のようなイメージでしょうか。

天照大神の5世孫が神武天皇なので、大々杼彦仁は武甕槌の5世孫であったと思われます。

出雲の国譲りの時代はいつ?

仮に、天照大神のモデルが邪馬台国卑弥呼であったとしたときの、神代の時代を予測してみます。

 

魏志倭人伝』によれば卑弥呼は西暦248年に亡くなった記録があります。卑弥呼の誕生年はわかりませんが60歳まで長生きしたとして、生まれたのは西暦180年くらいでしょうか。

 

 

シナリオ①子供が20歳で生まれたとすると…

 

誕生

(寿命60)

天照大神

180

248

天忍穂耳尊

200

260

瓊瓊杵尊

220

280

鸕鶿草葺不合

240

300

神武天皇

260

320

 

シナリオ②子供が30歳で生まれたとすると…

 

誕生

(寿命60)

天照大神

180

248

天忍穂耳尊

210

270

瓊瓊杵尊

240

300

鸕鶿草葺不合

270

330

神武天皇

300

360

 

一世代が30年で子供を生んでいくと神武天皇は4世紀の人物になってしまい遅すぎます。王族であること、今より寿命が短いと事を考えると、結婚は早かったと考え一世代20歳のシナリオ①で考えたいです。

 

シナリオ①で考えると神武天皇と大々杼彦仁は3世紀中旬〜4世紀初旬に活躍したと思われ、神武東征もこの頃だったのではないでしょうか。

大和(奈良県)に初めて前方後円墳(箸墓古墳)が作られるのは3世紀中旬〜後半とされており、この時代に一致します。

 

箸墓古墳の年代は西側から東征してきた勢力が大和に入ったことを物語っているように思います。

 

つまり、邪馬台国の子孫である神武天皇が東征(大和平野への進出)をおこない、大阪を治めていた武甕槌の子孫である大々杼彦仁が東征に協力した、という古墳時代の幕開けともいえる出来事を伝えいるのが、式内楯原神社の社伝なのではないかと思います。

 

残念なことに『古事記』『日本書紀』では、大々杼彦仁は登場せず、十握剣の物語は物部氏の一門の高倉下または天香山命の功績となっていますが…

 

出雲の国譲りと荒神谷遺跡

3世紀中旬〜後半という時代は出雲(島根県)で地中に大量に銅矛がうめられた時代とぴたりと一致します。

 

荒神谷遺跡の年代は250年±80年と予測されているのです。

 

250年-80年の西暦170年だった場合は、『魏志倭人伝』の倭国大乱の時代にあたるのですが、250+80年の西暦330年だった場合、神武天皇の子、あるいは孫の時代にあたります。

神武天皇が東征を行ったとすると、10代の崇神天皇が5世紀の人物になってしまいますし、後の天皇の時代が矛盾することになります。

 

初代神武天皇2代綏靖天皇〜9代開化天皇は存在しなかったとする欠史八代という説もありますが、系図が存在するので該当する人物はいたのではないかと考えています。

系図は正しい一方で大和に進出したのは神武天皇ではなく崇神天皇だったのではないかと思います。

 

理由は神武天皇崇神天皇は同じ和風諡号を持つためです。

神武=始馭天下之天皇

崇神=御肇国天皇

 

どちらも読み方は「ハツクニシラズスメラミコト」すなわち、初めて国を治めた大王という意味です。

なので、崇神天皇の子、孫は垂仁天皇景行天皇となります。景行天皇の子、ヤマトタケル熊襲タケルを討伐したあと、その帰路に出雲に立ち寄り、出雲国造のイズモタケルを倒す神話がありますが、この時代とは少しズレがあるようです。

 

まとめると、荒神谷遺跡の大量の銅矛を地中に埋めた事件は、3世紀に大和を平定した勢力が、出雲に進出した事を示すのではないかと思われます。

 

出雲の国譲りは3世紀と4世紀に2回あったということになります。そして一度目には武甕槌が、二度目には武甕槌の子孫が出雲の国譲りに関わっていると考えると興味深いですね。