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九州年号と磐井の乱

この記事では日本の古代史における謎である「九州年号」と『日本書紀』によって語られる九州の豪族「磐井」の叛乱についてまとめました。  

 

 

磐井の乱とは

磐井の乱(いわいのらん)は、筑紫の国の国造である「磐井」が新羅と協力して、朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を妨害したため、528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱として『日本書紀』に記されています。

福岡県八女市吉田には「岩戸山古墳」があります。岩戸山古墳は①築造年が6世紀前半であること、②『筑後国風土記』に記された特徴と一致する事から磐井の墓と推定されています。

磐井が豪族(国造)ではなく君である謎

日本書紀』では磐井は筑紫国造という地位、すなわち大和政権の配下の地方統治を任された長ということになります。大和政権の配下の地位にある磐井が、新羅と通じて、大和政権に反抗したとすれば、それはまぎれのない反乱といえます。

 

しかし、 『古事記』、『筑後国風土記』では「竺紫君石井」「筑紫君磐井」と記されています。古代において「君(きみ)」とは、天皇の血筋である有力な豪族を指します。例えば第8代孝元天皇の末裔である武内宿禰とその末裔である蘇我氏、葛城氏、巨勢氏らがは「君」と呼ばれています。わざわざ地方豪族である磐井に「君」という敬称を付ける事は、高貴な血筋の人物であった可能性を感じます。

 

また、『日本書紀』は新羅筑紫国造磐井に賄賂を送って、ヤマト政権に反乱を起こしたと伝えていますが、『古事記』、『筑後国風土記』、『三国史記』では、大和政権が筑紫君磐井に先制攻撃を仕掛けて征服したような記載となっているのです。

 

 つまり、大和政権にとって玄界灘周辺に勢力を持ち、かつ高貴な血筋である磐井を倒さなければ、朝鮮南部へ兵を送ることはできなかったという事が考えられます。

 

九州年号を制定したのは筑紫の君か? 

さらに興味深いのは、「九州年号」の存在です。九州年号とは九州を中心に日本各地に痕跡が残っている、「大和政権」が初めて制定した701年「大化」よりも古い元号です。

 

例えば、「願転」という元号が、愛媛県大山祇神社や長野県の善光寺の古文書に残されており、九州年号は九州の一部地域だけで使われたローカルな元号とはいえなそうなのです。

 

大和朝廷のオフィシャル元号以外の、しかも、より古い年号が存在することは大和政権にとって不都合であるという理由からか、大和政権はこの年号の使用を禁止しています。

 

中国ではじまった年号という制度は、天帝の命を受けた天子(=皇帝)だけが、決定することができるとされていました。紀元前140年に漢の武帝が「建元」という年号を定めたのが始まりとされています。つまり、年号を定められる人物は、「皇帝」を名乗ることができる権力を持つものだけであり、地方の一豪族が定められるものではありません。だから、大和政権よりも古い時代に、日本列島に天皇がいては不都合なのです。

年号は天子=皇帝しか定められない原則にのっとって、中国の皇帝に従属する諸侯や朝鮮半島百済王は、年号を定めずに中国の年号を使用しています。(新羅高句麗は独自の年号を使用)なので、中国王朝に任命されていた倭の五王、最後の倭王武までは、少なくとも独自の元号を持っていなかったのではないかと考えられます。

九州年号と大和政権年号

九州年号における最初の元号は「善記元年」は522年に相当します。

Wikipediaより

倭王武が中国の皇帝から最後に将軍号を授与されたのは502年でこの20年後となります。晋→斉→梁と短命な中国の皇帝を見限り、自らを天子を自称し年号を設定したのが、522年だったのではないでしょうか。

 

528年に大和政権と戦った「磐井」は九州年号を日本で初めて定めた天子(皇帝=天皇)なのではないか。つまり、日本の初代天皇は「磐井天皇」であり、磐井の乱ではなく継体の乱が正しいのではないかとも思えてきます。

 

磐井の乱と『百済本記』の衝撃的な記述

 百済の歴史を記した『百済本記』には、「辛亥の年(531年)に日本の天皇、皇太子、王子が同時に亡くなった」とあります。大和政権側の記録である『日本書紀』には第26代継体天皇の没年が辛亥531年として対応されていますが、皇太子が没した事は記載されていません。

 

古事記』では第26代継体天皇の没年を丁巳527年としており、『日本書紀』の記述と矛盾しています。『百済本記』は528年に大和政権と戦った磐井とその後継者が531年に討ち取られ亡くなったことを記しているのではないかと思えるのです。

 

 

 

まとめ  

・『日本書紀』によれば筑紫国造の磐井は新羅と協力して大和政権の朝鮮半島南部への出兵を妨害したため討伐された

・『日本書紀』以外の歴史書では磐井を国造ではなく、「君」として記しており、高貴な血筋の人物であったと推測される

・九州には大和政権が701年に初めて定めた年号よりも古い「九州年号」が存在するが、年号を定めることができるのは天子=皇帝だけであり、磐井であった可能性がある

・『百済本記』によれば531年に日本の天皇、皇太子が同時に亡くなったと記されてあり、大和政権との闘いで磐井と後継者が討ち取られた事を記しているのではないか