日本の歴史では、大和を中心とした近畿天皇家が古来から日本を支配してきた一元的な歴史として語られることが多いですが、実は600年にもわたり北九州を拠点とした「九州王朝」が存在したという説があります 。
他国の歴史書からみる九州王朝の存在

春日市奴国の丘歴史資料館より
九州王朝は「倭国」として、近畿王朝よりも早く(1世紀頃)から中国や朝鮮と交流を重ねていました。

5世紀には倭の五王が宋に朝貢しており、これは朝鮮半島南部に勢力を持つ九州王朝が高句麗の南下に対抗するために行ったものであると考えられます。4世紀には倭と高句麗が度々戦ったことが好太王碑に刻まれています。
近畿王朝は大陸から離れていたため、日本の代表として他国に認識されるようになったのは7世紀の白村江の戦い以降でした。
近畿王朝が初めて朝鮮半島の新羅と国交を結ぼうとしたところ九州王朝に阻止された事件が『古事記』と『日本書紀』に記された磐井の乱(527年)であったと考えられます。

そうだとすれば、記紀の主従関係が逆転しており、天皇であった磐井に対して豪族の継体が反乱を起こしたとなりますが、『筑後国風土記』では磐井は死なず生き残っています。

瀬戸内海や九州に建築された神籠石(朝鮮式山城)は継体の反乱に備えるために九州王朝が建築したものではないでしょうか。
磐井の乱を機に九州王朝と畿内王朝の関係が悪化した証拠として、今城塚古墳(大阪府高槻市)を始めとする畿内古墳の石棺部材に使われていた阿蘇ピンク石(馬門ピンク石)の流入が530年頃で終息していています。
白村江の戦いが運命を分けた
九州王朝は、中国との冊封体制下で交流を深め、仏教を深く信仰していました。しかし、運命の転換点は663年に発生した「白村江の戦い」です。

この戦いで大敗した九州王朝は、強大な戦力を失いました 。敗戦国となった九州王朝の豪族は捕虜となり、唐の植民地統治機関である「筑紫都督府」が太宰府に設置されています。

白村江戦いの前に唐新羅連合軍によって泗沘城を陥落させられ、義慈王を捕虜とされた百済には660年に熊津都督府(ゆうしんととくふ)という植民地を管理する機関が唐によって設置されており、これと同じ扱いですね。
一方で近畿王朝は白村江の戦いには参加しているいなかったように思われます。『日本書紀』の白村江の戦いの記述は『百済本紀』からの引用で具体的でなく戦いの当事者とは考えられません。『古事記』に関しては全く記載がないのです。
近畿王朝が日本の代表となる
白村江の戦いの2年後、唐が近畿の「日本国」を公式な外交相手と認めたことで、九州王朝は事実上滅亡します。
『日本書紀』によれば、665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使を派遣した。 667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。
665年に倭国側が遣唐使を派遣したとあることから、唐は滅ぼされた九州王朝の代わりに近畿王朝を日本の代表として、唐の皇帝である高宗の封禅の儀(即位式)への参列を求められたということになります。
九州王朝の歴史を参考に日本書紀は作られた?
次の記事は、九州王朝の勢力が、王朝ゆかりの神器や禁書を持って神籠石に立てこもったことに対し、元明天皇が百日以内の投降を命じた出来事だと解釈されています。
「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初の如くせよ。」『続日本紀』元明天皇和銅元年(七〇八)正月条
『続日本紀』に登場する「禁書」は、奈良時代の朝廷が正史から排除しようとした九州王朝系の歴史書であるという説があります。

禁書を持って立てこもったのはもちろん九州王朝の残存勢力でしょう。立てこもった場所(山沢)は磐井の乱の後に作られた「神籠石(こうごいし)山城」ではないかと推測されています。

神籠石には水源となる沢や池が内部にあり、「山沢」という表現が地理的に一致しているためです。
この出来事から12年後に『日本書紀』が成立します。九州王朝の歴史書が一部が加えられた結果、『日本書紀』が『古事記』とは異なる内容になったと考えられています。
まとめ
唐との戦いで急速に国力を衰えさせた九州王朝に対して、近畿王朝は対外戦争を避け、九州王朝が自滅するのを待つという巧みな戦略を取りました。
その結果、国力を消耗することなく、その後の奈良時代、平安時代と貴族文化が栄えることになっていったのです。