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阿毎多利思北孤(あめのたりしひこ)は聖徳太子なのか?

日本の歴史で有名な聖徳太子。17条の憲法や冠位十二階など聖徳太子の功績は小学校の社会の教科書で学んだ記憶があります。しかしその実像には多くの謎が残されており、最近では聖徳太子はいなかったとする説が話題になっています。今回記事では、法隆寺金堂の釈迦三尊像に刻まれた銘文から聖徳太子を考察します。

 

 

 

聖徳太子とは?

聖徳太子(しょうとくたいし)は、飛鳥時代に実在した皇族であり、政治家です。推古天皇の摂政(せっしょう)として、蘇我馬子(そがのうまこ)と協力し、天皇を中心とした国家体制を築くために様々な政治改革を行いました。

 

聖徳太子と名付けた人物は?

 

聖徳太子の本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)といい、「聖徳太子」という名は彼の死後に与えられた諡号(おくりな)です。

 

日本書紀』には「上宮太子」として記載されており、その死後に「聖徳太子」という名が与えられたことがわかるためです。

 

聖徳太子」という諡号は日本最古の漢詩集である『懐風藻』で初めて登場します。つまり聖徳太子が亡くなってから130年後の751年には少なくとも聖徳太子と呼ばれていたことがわかります。

聖徳太子という諡号をつけたのは淡海三船おうみの みふね722年 - 785年)という人物ではないかと言われています。

 

淡海三船懐風藻』の撰者であるという説が有力なこと②神武天皇から元正天皇までの歴代天皇に、中国風の漢字2文字の諡号(漢風諡号)を定めたのも淡海三船だからです。

 

ちなみに、淡海三船壬申の乱で有名な大友皇子のひ孫です。

 

銘文が示す、通説との矛盾

法隆寺釈迦三尊像の光背(仏像の背後にある飾り)には次の銘文が刻まれています。

 

法興元31年辛巳年の12月に鬼前太后が亡くなった。翌年の1月22日上宮法皇は病の床に臥せて、飲食ができず、意識がもうろうとされた。干食王后もまた、看病の疲れから病にかかり、共に床につかれた。病気平癒を願ってこの釈迦如来の像が造り始められたとされたが、完成を待たずに二人が亡くなったため、その冥福を祈って完成された。

 

一般的には、鬼前太后聖徳太子の母、穴穂部間人皇女、上宮法皇聖徳太子、干食王后は聖徳太子の妃と解釈されています。実は矛盾があるのです。

 

異なる名前が記されている

聖徳太子の母は穴穂部間人皇女であり、鬼前太后と呼ばれた記録がありません。

上宮法皇の「法皇」とは仏教の僧籍に入った天子の意味がありますが、聖徳太子が僧籍に入った記録もありません。

また、聖徳太子の妃として、蘇我馬子の娘である刀自古郎女(とじこいらつめ)、敏達天皇推古天皇の皇女である菟道貝蛸皇女(うじかいこのひめみこ)、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)、膳大郎女(かしはでのおおいらつめ)がいますが、干食王后という妃がいた記録はないのです。

 

聖徳太子の没年が異なる

銘文には太子の没年が記されていますが、『日本書紀』に記録された聖徳太子の没年とは異なっています 。銘文で上宮法皇が亡くなったと記されるには「622年2月22日ですが『日本書紀』では聖徳太子は「推古二十九年(六二一)春二月己丑朔癸巳(五日)」であり没年が異なるのです。

 

謎の年号「法興」

法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘文には、「法興元丗一年(法興元31年目)」という記述がありますが、これは日本の正史にはない年号です。日本で初めて年号が使われたのは「大化」であり、聖徳太子の時代には年号はまだないのです。

 

「法興」は『法隆寺釈迦三尊像光背銘』や『伊予国風土記逸文』『長光寺縁起』『上宮法王帝説』『聖徳太子傳私記』『太子像胎内納入文書』など複数の書物に残されており、私年号とは言い難いのです。

 

「法興」という漢字が使われた記録として朝鮮半島新羅の第23代の王に法興王(在位:514年〜540年)がいます。彼は在位中に仏教を公認し、律令を整備するなど、新羅の国家体制を確立した功績から、死後「法興」と呼ばれました。同様に日本列島にも「法興」と呼ばれた王がいたのでしょうか。

 

伊予国風土記逸文』の「伊予温湯碑」には、法興六年(596年)十月に法王大王が伊予を訪れたとあり、日本列島にも法王大王と呼ばれる人物がいたことがわかります。

 

それでは銘文に記された「上宮法皇」(法王大王)とはいったい誰なのでしょうか?

 

上宮法皇は「日出づる処の天子」なのか?

この銘文は聖徳太子のものではなく、607年に隋の煬帝に遣いを送った「日出づる処の天子」として知られる九州王朝の天子、「阿毎多利思北孤(あめのたりしひこ)のものではないかという説があります。

 

たしかに、阿毎多利思北孤は煬帝に対して「東の菩薩天子」と名乗っていることから仏教を信仰していたことが読み取れます。「法興」は九州年号なのでしょうか。

 

法興元年は591年末年は622年にあたるため以下の九州年号と重複しています。興味不快ことに釈迦三尊像の銘文の上宮法皇の没年である623年に年号は改元されています。となると「法興元」は少なくとも九州年号ではないとわかります。

 

端政 (五八九~五九三) 

告貴 (五九四~六〇〇)

願転 (六〇一~六〇四)

光元 (六〇五~六一〇)

定居 (六一一~六一七)  

倭京 (六一八~六二二) 

仁王 (六二三~六三四)

 

多利思北孤が仏教を信仰し、法号を授与した後の年数として記されたと解釈するしかありません。法号とは仏教を信仰した者に対して、授けられる名前のことです。

 

菩薩天子と名乗ったのは、法号を授与し、仏教を崇拝していたからであるとすれば、誰が多利思北孤に法号を与えたのでしょうか。『日本書紀』によれば588年に百済から聆照律師らが恵総法師を伴いやって来たと記されています。『伊予温湯碑』にも596年に法王大王と共に恵総が伊予に訪れたとあり、法興元年591年に多利思北孤に法号を与えたのは聆照律師または恵総であると考えられるのではないでしょうか。

 

法隆寺の火災と釈迦三尊像

 

実際に670年に法隆寺が火災で焼失したという記録があります。すなわち、現在の釈迦三尊像は焼失後に別の場所から移されたものであると仮定した場合、九州で作られた釈迦三尊像法隆寺に持ち込まれたことも考えられるのではないでしょうか。