日本の歴史上の人物である聖徳太子。彼の肖像画は、かつて日本のお札にも描かれ、日本人にとって馴染み深いものでした。しかし、現在「聖徳太子」の名は教科書から姿を消し、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」として記述されることが増えています。一体なぜなのでしょうか? この記事では、聖徳太子の「本当の顔」や、教科書から「聖徳太子」が消えた理由についてまとめます。
聖徳太子がお札となったのはいつ?

聖徳太子が初めて日本の紙幣にとして登場したのは、1930年(昭和5年)に発行された「乙百円券(おつひゃくえんけん)」です。
聖徳太子はその後も千円札、五千円札、一万円札など、合計7回にわたって日本の紙幣として採用されています。聖徳太子は現在でも日本紙幣に登場した歴史的人物として最多記録を誇っています。

特に有名なのは、1958年(昭和33年)から発行された一万円札ではないでしょうか。1984年の福沢諭吉デザインが登場するまで、20年という長年にわたって親しまれたことから、現在でも多くの人にとって「一万円札といえば聖徳太子」というイメージが定着しています。
「聖人」としての聖徳太子像
聖徳太子は、優れた政治家としての一面だけでなく、仏教を広めた「聖人」として、日本中で広く信仰されてきました。そのため、江戸時代までの聖徳太子像は、お札に印刷された「あの肖像画」とは異なり、主に仏教的な意味合いを持つものが主流だったのです。

例えば、1307年に作られたと伝わる聖徳太子2歳像。東に向かって「南無仏」と唱え、手から仏舎利(仏様の骨)がこぼれ落ちたという伝説を表す像です。

聖徳太子孝養像(こうようぞう)
13世紀の作品で、父・用明天皇の病気平癒を祈ってお香をたく16歳の姿を描いた像です。

お経の講義をする姿のを描いた:仏教の経典『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を講義する姿を描いた像 。

女性信者である勝鬘(しょうまん)婦人が説いた教えを釈迦が認めた勝鬘経は女性からの聖徳太子への信仰を集めました 。

如意輪観音菩薩半跏像
聖徳太子の本当の姿は観音菩薩であるという信仰から、法隆寺の夢違観音像(ゆめちがいかんのんぞう)などが、聖徳太子の「本当の姿」として信仰されていました 。

空飛ぶ馬に乗り富士山を登る聖徳太子
これらの像や絵画は、聖徳太子の死後100年以上経ってから作られたものであり、彼の政治的手腕よりも、その超人的な智慧や徳、仏教的な功績に焦点を当てたものでした。
聖徳太子の名が教科書から消えたのはなぜ?
これらの仏教を広めた聖人としての聖徳太子像は、日本紙幣で有名な聖徳太子像とは異なるように思います。では、なぜあの有名な聖徳太子の肖像画が採用されたのでしょうか。

その背景には、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と国家神道への転換があったと考えられます。
明治政府は、仏教を否定し、天皇を中心とする国家神道を確立しようとしました。この動きの中で、仏教色を強く持つ従来の聖徳太子像は、政府の方針とは合致しませんでした。

聖徳太子および二王子像
そこで注目されたのが、法隆寺に伝わる「聖徳太子および二王子像」です。この像は、摂政としての姿を描いているため、仏教的な要素が薄く、天照の子孫たる大和政権の血を引く皇室の人物としての聖徳太子を表現するのに適したのです。
さらに、廃仏毀釈による仏像や仏具の破壊運動から逃れるために、法隆寺が皇室に宝物を献上した(1878年=明治11年)背景もあり、「聖徳太子および二王子像」が皇室ゆかりの品として全国に広まった結果、お札にも採用されるほど国民に浸透したのです。
しかし、歴史学の研究が進むにつれて、この肖像画は聖徳太子(厩戸皇子)の生前に描かれたものではなく、没後100年以上経ってから描かれた想像図であるという見解が有力になっています。このため、多くの教科書では、肖像画の横に「伝聖徳太子像」というように「伝」の字をつけたり、描かれた時期が聖徳太子の時代ではないことを補足説明したりしています。また、教科書によっては「聖徳太子」という表記そのものを避け、本名である「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と記載する傾向も見られます。
まとめ
・明治時代以前は聖徳太子は仏教を広めた聖人として信仰の対象だった