不老長寿の霊薬を探し求めた秦の始皇帝によって派遣された徐福が日本に来たとする伝説が日本各地に残っています。
これらの伝承はいつから語りつがれているものなのか気になり調べてみました。
朝鮮半島に伝わる徐福伝説
日本だけでなく韓国にも徐福の伝承は語り継がれているようです。
済州(チェジュ)島には徐福伝説が残っています。

済州島の西帰浦(ソギポ)に伝わる伝承では 、 正房瀑布の岩 壁に「徐市過比」(徐福が通過した) と刻まれていたとされています。

済州島での滞在を終えた徐福が船に乗って秦に帰る際に立ち寄ったことが、「(徐福が)西に帰った浜辺」=「西帰浦」の地名の由来になっています。
徐福は一度、三つの神山にたどり着いたあと、帰国して神山の様子を始皇帝に報告したとされていますので、1度目の航海の帰路に済州島の西帰浦に立ち寄ったのでしょう。

また、慶尚南道の巨湾郡の海金剛マウル( 村 )雨祭峰の絶壁に「徐市( 氏 )過比と刻まれていた との伝承があります。

海金剛の徐福伝承から徐福は朝鮮半島沿岸部を経由して日本列島に向かったと思われます。

徐福はどうやって日本列島へ来たのか
朝鮮半島を経由して日本列島に入った徐福がどうやって日本列島にやってきたのか想像していきます。
当時、紀元前3世紀の朝鮮半島には呉、越、楚からの移民と縄文人(7300年前に鬼界カルデラの噴火から逃れた)が住んでいました。

徐福は始皇帝から支給された高価な水銀などで、海洋民族である越や呉の移民の末裔と交渉し、水先案内人となってもらい、朝鮮半島沿岸部を経由して日本列島を目指したものと思われます。
朝鮮半島からの日本列島への玄関口といえば、壱岐島、対馬を経由して福岡に上陸したのではないかと思われます。

古代に上記ルートを抑えていた一族として「安曇族(あずみぞく)」がいます。(※安曇族が日本に渡来したのは菜畑遺跡の時代と推測しており、呉や越の移民よりも古いと考えています)
北九州にはすでに安曇族、呉、越の末裔が入植していたため、徐福らは安曇族との交渉の末、上陸したのが徐福伝説が多く残る佐賀県だったと推測します。

佐賀に伝わる徐福伝説
佐賀県佐賀市諸富町(もろどみちょう)浮盃津(ぶばいづ)地区に残る徐福伝説から見ていきましょう。
徐福一行がまず着いたのは杵島の竜王崎(杵島郡白石町)であったが上陸に適さなかったので、徐福は大きな盃を海に浮かべ流れつくところから上陸することにした。盃は流れ流れて筑後川下流の搦に辿りついた。浮かべた盃が流れついたところから、この浜を浮盃というようになった。
出典:諸富町史P.1233

佐賀市諸富町にある新北(にきた)神社には、徐福が上陸した際に植えたと伝わる神木ビャクシンがあります。樹齢は2200年と推定されることから徐福の時代と一致します。

佐賀県佐賀市金立町千布には金立(きんりゅう)神社があります。御祭神の金立大権現金は徐福であるとする伝承が残っています。

江戸時代に描かれた『金立神社縁起図』は別名『徐福渡海縁起図』とも呼ばれ、船4隻に乗った徐福一行が浮盃江に上陸しようとする様子が描かれているのです。

金立神社画図縁起」(金立神社蔵 佐賀県立博物館寄託)
また、金立神社付近の立山(標高501M)を登る際にぬかるむ道に千枚の布を敷き詰めたことから千布(チフ)という地名となったと言われています。

諸富町から金立町周辺を拠点とした徐福はここに国を建国しようと決意したのでしょうか。一時帰国(この時に済州島を通ったか)し、紀元前210年に再び山東半島を巡航している始皇帝に対して童男、童女3000人を要望します。
徐福が連れて来たて童男、童女3000人はやがて、神崎郡(かんざきぐん)の吉野ヶ里遺跡を作った人々の祖先なのではないでしょうか。

吉野ヶ里遺跡の始まりは、紀元前4世紀もしくは紀元3世紀ごろとされており、この地に住む縄文人と交流しながら、あるいは戦いながら国を建国していったのかもしれません。
日本各地の徐福伝承
その後、徐福は不老長寿の薬を探すために日本全国を旅したようです。
以下は日本各地の徐福にまつわる伝承を持つ地域です。
・福岡県八女市
・鹿児島県串木野市
・鹿児島県坊津町
・宮崎県延岡市
・広島県宮島町
・京都府伊根市
・三重県熊野市
・愛知県熱田神宮
・愛知県小坂井町
・山梨果富士吉田市
・東京都八丈島
・東京都青ヶ島市
長野県の佐久市には徐福が地元の女との間にもうけた双子の伝承を持つから二子山があります。
静岡県から南へ帰る途中、和歌山県の熊野で没したという伝承があります。
改めて現地を訪れてみようと思います!