埼玉(さきたま)古墳郡がある埼玉県行田市埼玉(さきたま)の古代を考えてみます。
目次
律令制度下の埼玉(さきたま)
645年大化の改新以降、中国に倣って律令国家体制を目指した中央政府は、701年に大宝律令を制定し、地方行政を国、郡、里に定めました。
東京新聞より
上は古代の律令制度で定められた武蔵国の21の郡を示しています。埼玉(さきたま)郡は南北に細長い形をしていますね。
埼玉県警察より
現在の市町村でいうと北は行田市、羽生市あたりから南は草加市までが埼玉(さきたま)郡となります。
なぜ埼玉(さきたま)郡はこのような歪な形をしているのでしょうか。
そのヒントが奈良時代末期に作られた『万葉集』に納められた歌にありました。
埼玉は海だった?
佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽祢
埼玉の 津に居る舟の 風をいたみ
網は絶ゆとも
言な絶えそね 『万葉集巻14-3380 』
埼玉(さきたま)の湊(みなと)に泊る船のように、風が強くて綱が切れてしまっても、愛のことばだけは絶えないでほしい。という意味の歌です作者は不詳です。
「埼玉の津」とは奈良時代の埼玉(さきたま)には海があったということなのでしょうか。
上は7000年前-6000年前の時の関東地方です。縄文海進と呼ばれ現在より海面が2-3m高かったことがわかっており、埼玉(さきたま)郡の一部の地域は海の底です。
南北に伸びる縄文時代の海岸線は埼玉(さきたま)郡の領域に一致しているようにみえます。
水の都埼玉(さきたま)
縄文海進は6000年前にピークを迎え、海水面は現在の推移に戻りますが、かつて海だった場所は湖や沼地として後の時代にも残っていました。
昔の利根川より
埼玉(さきたま)郡の南北に細長い形は旧利根川に由来していると思われます。(徳川家康による利根川付け替え工事の前の旧利根川は東京湾に流れ込んでいました)
さいたま市立博物館企画展「鴻沼」展示より
また、旧利根川、元荒川の流域はつい最近まで沼地が多かったことがわかっています。
陸運より水運のほうが、圧倒的に利便性が高かった古代には、人々は、土や石を運ぶ際にこれらの水路を活用していたのではないでしょうか。
古利根川や元荒川を通じた、同一の交易ネットワークが形成された結果成立したのが埼玉(さきたま)郡だったのではないでしょうか。
万葉集「埼玉の津」はどこ?
さし暮るる 洲埼に立てる 埼玉の 津に居る舟も 氷閉じつつ 藤原 定家
『万葉集』が編纂されてからおよそ300年後、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人である藤原 定家も「埼玉の津」について歌を詠まれています。13世紀の頃にも埼玉郡は津(港)として認識されていたのでしょうか。
埼玉の津として一つの候補となる遺跡が埼玉県行田市にあります。
全国遺跡報告総覧より
埼玉県行田市大字野字高畑にある「築道下(つきみちした)遺跡」です。
築道下(つきみちした)遺跡からは元荒川の左岸に沿って200軒の住居跡と200棟の建物跡が見つかっています。
築道下(つきみちした)遺跡の住居、建物跡は古墳時代(6世紀)から中世まで存続していた形跡があります。この場所が中世においても内陸の港だったもすれば藤原定家や中央貴族が知っていてもおかしくはないのかも…?
埼玉県立歴史と民俗の博物館より改変
6世紀といえばさきたま古墳郡が築造された時期と一致します。豪族クラスの副葬品がないことからさいたま古墳の被葬者が住んだ集落ではないようですが、古墳建築に必要な物資がこの場所を通って運ばれた可能性はありそうです。