丹後半島を訪れる事で、古代から朝鮮半島、中国から渡来人が度々来訪したエリアだった事がわかってきました。
現地に行ってわかったことをまとめていきたいと思います。
丹後半島の歴史と神話
彦火明と出雲の関係
日本の始まりは天の国から地上(九州)にニニギノミコトが降り立った(天孫降臨)と古事記、日本書紀では語られています。
一方で丹後には彦火明命(ヒコホアカリノミコト)が降り立ったと伝わっており、もう一つの天孫降臨神話があるところが大変興味深いです。
海部氏系図を見るとヒコホアカリと天道日女(アメノミチヒメ)の子が天香語山命(アメノカゴヤマ)とあります。アメノカゴヤマの母アメノミチヒメは大己貴神(オオナムチ)の娘なので、ヒコホアカリ一族は出雲族とも婚姻関係を結んでいます。
天香語山命の妻の穂屋姫(ホヤヒメ)はヒコホアカリと佐手依姫の娘で天香語山(アメノカゴヤマ)にとっては腹違いの妹にあたります。佐手依姫の別名は市杵嶋姫命、息津島姫命、日子郎女神なのでホヤヒメは「海の民」の娘と思われます。
これらの系図から、丹後に降臨したヒコホアカリ一族は日本海沿岸の出雲族や市杵島(イキ・ツシマ)を拠点にする海の民と結びついて日本海沿岸の影響力を強めたことが推測できます。
また、日本海をさらに北上した越後の国を見てみると、アメノカグヤマは別名弥彦神(ヤヒコガミ)彌彦神社祀られています。越後地方ではアメノカグヤマの妻ホヤヒメを祀る神社もありますので、ヒコホアカリ一族の影響は越後の国にも及んでいそうです。
●アメノカグヤマに関する記事↓
丹後と天村雲伝説
『海部氏系図』ではヒコホアカリの孫の天村雲の代になって初めて丹後の豪族の娘(伊加里姫)を妻にしています。
眞名井神社にはアメノムラクモが湧水を天から持ってきたという伝説もありますし、アメノムラクモの代になると丹後地方に影響力を持っていたことが推測されます。
日本海沿岸を拠点にしていたヒコホアカリ一族が、3代アメノムラクモの代には丹後内陸部の豪族と結びついた。あるいはヒコホアカリ一族が丹後に来たのはこの頃なのでしょうか。
古代丹後年表
(※私見、妄想含む)
・紀元前200年頃?秦から徐福の一団の一部が丹後半島に渡来。(丹後の徐福伝説)
・眞名井に天女が渡来。豊受大神(トヨウケノオオカミ)として祀られる。
・ヒコホアカリノミコトが出雲族と婚姻。
・アメノカグヤマが海の民と婚姻。越後へ。
・ヒコホアカリの孫の天村雲が眞名井神社で湧水をもたらす。
・海部氏4代目が瀬戸内海で初代神武天皇(BC120-BC70誕生?)を助けて倭宿禰の称号を賜る。
・竹野姫が9代開花天皇の妃となる。竹野神社に天照大神を祀る。
・9代開花天皇の命で開花天皇の子の日坐王が大江山の酒呑童子を討伐する。
・10代崇神天皇の妹が天照大神を籠神社に祀る。
・天日矛を迎えて渡来系の技術を得る。
・21代雄略天皇が豊受大神を伊勢神宮へ祀る。
・浦嶋子が蓬莱山へ行く。
丹後の伝説と記紀の記述を合わせる事で年表が作れるほど中央政権との関わりが深い地域であったことがうかがえます。
さて、大きな謎として残るのが、雄略天皇が籠神社に祀られていたトヨウケノオオカミを伊勢神宮に祀った理由です。
本当の理由は誰にも分からないかと思いますが、当時の東アジア情勢を踏まえて以下のように考えてみました。
雄略天皇が籠神社の豊受大神を伊勢神宮に祀った理由
結論から申しますと、雄略天皇は丹後の豪族との関係強化のために豊受大神を祀ったのではないかと考えています。
丹後の豪族が持つ新羅系渡来人とのコネクションを手に入れたかったためです。雄略天皇頃のの時代背景をみていきます。
まず、雄略天皇の時代は埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣や、中国の歴史の『宋書 倭国伝』より5世紀末と考えられます。稲荷山古墳の鉄剣に関する記事はこちら
5世紀末の東アジア、特に朝鮮半島では北の騎馬民族である高句麗が朝鮮半島南部へ侵攻し、百済を滅亡させています。
それまでのヤマト政権は百済を通じて大陸の文化や技術を取り入れていました。百済滅亡を受けて対策に迫られた雄略天皇は「百済が滅亡したからには新羅と関係を構築するべし」と決断したのではないでしょうか。
その方法こそが新羅系渡来人と関わりの深い丹後の豪族と同盟を結ぶ事です。
丹後勢力を介して新羅外交を狙った雄略天皇
丹後にある3世紀の古墳の副葬品から朝鮮半島との交流を示されており、お隣の但馬国 には新羅王子、天日槍 (アメノヒボコ)が渡来した出石神社があります。
10代崇神天皇に派遣された丹波道主命は但馬、丹羽、丹後ら一つの国として治められています。
記紀によれば、雄略天皇は長きにわたって朝鮮半島への外交を担当していた有力豪族葛城氏と対立した記録があります。百済と結びつく葛城氏に対抗する後ろ盾として葛城氏に代わる、朝鮮半島と関係の深い丹後の豪族に接近したかったのではないでしょうか。
丹後の浦島太郎伝説と豊受大神の関係
雄略天皇が丹後の豪族と繋がった証拠はまだ見つけられていませんが、『日本書紀』の雄略天皇紀に気になる記録があります。
雄略天皇の御代22年(478年)秋7⽉、
丹波国与謝郡筒川に⽔江浦嶋⼦という⼈物がいた。
⾈に乗って釣りをしていると、遂に⼤⻲を得た。
⻲は美しい⼥性になり、浦嶋⼦はこれを妻とした。
海に漕ぎ出した⼆⼈は、蓬莱⼭に⾄った。
そこは仙⼈たちが暮らす世界だった。
詳細は別巻に在る。
全国各地に残る浦島太郎伝承の中でも記録に残る最古のものとされるこの話の注目せずにはいられないのは、その年です。
雄略天皇22年(478)7⽉とは雄略天皇が籠神社の祭神豊受大神を伊勢神宮外宮に祀った時期と一致するのです。このときに丹後で何事かが起こった可能性があり、浦嶋⼦伝承の発祥に何らかの関連がある可能性があります。
『日本書紀』には「詳細は別巻に在る。」とあるので日本書紀を編纂した時に参考にした他の書物(丹後国風土記?)には豊受大神を伊勢神宮に祀った出来事を、「浦島子が蓬莱山に行った」と記していたとしたらどうでしょうか。
眞名井神社の千木(チギ)は男神が祀られる特徴である「外削ぎ」なのは浦嶋子が関係しているのでしょうか。
前回の記事で記しましたが豊受大神を祀る籠神社の奥宮眞名井神社には天女の羽衣伝説があり、天女は朝鮮半島から来た渡来人だと考えています。
籠神社に伝わる海部氏系図によれば彦火明命はオオナムチの娘と婚姻しています。長くなるので次回かきますが、出雲神話には新羅との関連性が多いのです。
まとめ
雄略天皇は朝鮮半島の情勢変化に対応するため、朝鮮半島外交を担っていた有力豪族葛城氏に対抗するために、新羅系豪族の神、豊受大神を伊勢神宮に祀り、関係を強化したのではないだろうか、という妄想です。
豊受大神や天女羽衣伝説と新羅の関連性が調べきれていないので、今後調査していきます。
まだまだ空想の域を脱しませんが、証拠を集めていきたいと思います😊
丹後半島⑤へ つづく
参考文献:日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く